犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

内田樹著 『街場のメディア論』 より (1)

2012-09-26 23:33:45 | 読書感想文

p.94~
 
 「どうしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は決して「暴走」したりはしません。暴走したくても、自分の生身の身体を「担保」に差し出しているから、制御がかかってしまう。真に個人的な言葉には制御がかかる。だって、外圧で潰されてしまったら、あるいは耳障りだからというので聴く人が耳を塞いでしまったら、もうその言葉はどこにも届かないからです。

 だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の代わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしてもこれだけは言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられ機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聴くに値する言葉だと僕は思います。

 逆から言えば、仮に自分が口を噤んでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。言い方を誤っても、論理が破綻しても、言葉づかいが汚くても、どうせ誰かが同じようなことを言ってくれる言葉であれば、そんなことを気にする必要はない。「暴走する言説」というのは、そのような「誰でも言いそうな言葉」のことです。

 ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。メディアが急速に力を失っている理由は、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった、そういうことではないかと思うのです。


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 テレビを見ていると、「語られるべき言葉が語られていない」という感じがしますが、それも慣れれば当たり前となるように思います。このような入口での微妙な違和感は、「語られるべき言葉」と何なのかを形にすることもできず、いつの間にか消えてしまうものです。また、メディアの特質として、視聴者に「自分のほうが世間からずれている」という焦りを生じさせる点も大きいと思います。

 一般の視聴者がテレビ番組に対して何を言っても批判だけであり、生産性がなく、「お前が代わりに番組を作れば視聴率が取れるのか」と言われれば退散するしかないと思います。そのような中でも、「語られるべき言葉が語られている」と感じることがありますが、これは理屈ではなく私の直観です。ネット上の言葉も同じことであり、玉石混交の中の貴重な玉を見つけたと感じるときには、氾濫する口汚い言葉のほうは眼中から排除される気がします。