犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

兵庫県川西市いじめ自殺事件

2012-09-23 23:56:50 | 時間・生死・人生

9月22日 読売新聞ニュースより

 兵庫・川西市でいじめを受けていた高校生が自殺した問題で、この高校の教諭が20日の授業中に、生徒に対して「遺族は学校を潰そうとしている」などと発言していたことがわかった。

 関係者の話によると、2年の男子生徒が自殺した川西市内の県立高校で、生徒指導部長を務める男性教諭が20日の授業中、生徒に対して、「遺族は学校を潰そうとしている」「体育祭や修学旅行があるが、それもどうなるかわからない」「遺族には申し訳ないが、同情する気はない」といった発言をしたという。

 男性教諭はNNNの取材に対し、この発言をしたことを認めており、「生徒が動揺しているので、通常の学校生活に戻したいという思いで話した」と答えている。


***************************************************

 「遺族が学校を潰そうとしている」のは、人としてごく当たり前のことだと思います。我が子が存在せず、我が子を死に追いやった人々だけが所属している学校は、遺族にとってそのような意味しか持たないからです。実際のところ、我が子をこのような形で突然失った両親にとって潰れて欲しいものは、学校どころか人類や地球でなければならないと思います。人間の絶望のエネルギーは、物理的な形にはなりませんが、言語で形容すれば確かにこのようになるはずです。

 人が社会に出て働き、組織に属し、「現実」に向き合うようになるという点では、会社員も自営業者も学校教師も同様だと思います。そこでは、現実の力が全身に浸み込んで、その現実が常識になり、子供の頃に不思議に思っていたことが忘れられます。その最大のものが「死」です。社会の現実を前にし、なお純粋な死の疑問を提示するならば、それは単に人生経験が足りない空想論であり、社会に通用しないものとして捨て置かれるものと思います。教師において、命を預かっていた生徒を死なせてしまった敗北感が前面に出ないのは、このような「現実」の力が大きいのだと思います。

 社会である程度揉まれた者であれば、「教師はこのようなことを内心でも思ってはいけない」という非難の念は起きにくいものと思います。教師の偽らざる本音としては、学校そのものが悪者扱いされ、通っている無関係な生徒にまで多大な影響が及んでいる状況は、いかにも理不尽であるはずです。「通常の学校生活に戻したい」というのは、現場の悲鳴を端的に示した言葉でしょうし、いきなり乗り込んできたマスコミや無関係な人々が正義を振りかざし、それまで積み上げてきた全てを否定することに伴う現場の疲弊は、それこそ1人の人間を死に追いやるだけの力を持つものと思います。

 人の集まりに過ぎない抽象名詞である「社会」や「組織」がこのような動きを示す中で、ある言葉を語ることが許されるか否かを決める1つの要素が、捨て置かれた「死」の問題が人間の意識の片隅に生じた場合の倫理ではないかと思います。教師の発言をマスコミに流した生徒の品格が疑われるべきことは当然ですが、このような本音を内心に留められるか否かが、教師の社会性の有無を示しているように感じます。この社会とは、どんなに理不尽でも黙って耐えなければならない時がある場所であり、いかに偽りの演技を強いられようと、「その場面では言ってはいけない言葉」があるものと思います。

 法治国家とは、つまるところ証拠によって過去の事実を認定し、訴訟で勝ち負けを決めるというルールしか認められない場所です。裁判は生産性のない争いであり、怒りや恨みの持続は疲労と消耗をもたらし、死者は帰りません。そして、人間の作る制度は相対的ですが、「死」は絶対的です。「遺族には申し訳ないが同情する気はない」といった発言は、言葉尻を捉えているきらいがあるにせよ、社会内で非難されなければなりませんし、これが支持されるような社会における人間の倫理観は、本来の場所から変質してしまっているように感じます。