犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

重松清著 『せんせい。』より

2012-09-18 23:47:11 | 読書感想文

p.86~ (保健室の先生と生徒の会話です)

 「先生、なんで最初にわかったんですか? わたしがみんなから意地悪されていること」
 「うーん?」
 「だって、わたし、なにも言ってなかったのに」
 先生は、「頭とおなかが同時に痛くなる子は、たいがいそうだよ」と言った。
 へえ、そういうものなんだ、とうなずくと、先生はベッドのほうを見て、つづけた。

 「あとね、あんたね、なんで意地悪っていうの? そういうときの言い方は知ってるでしょ、5年生なんだから」
 胸がどくんと鳴った。おろしたての白いシャツに、カレーとかラーメンのスープとかの染みが散ったとき、みたいに。
 いじめ ―― なんだ。わたしは、みんなからいじめられているんだ。
 鬼ごっこの鬼につかまった。ずっと必死に逃げてきたのに、追いつかれた。

 いじめは伝染病だ。しかも、かかった子ではなく、かからなかった子のほうが苦しめられる。サイテーの伝染病で、センプク期間も、何日で治るかも、特効薬も、なにもわからない。
 「意地悪されてるって思ってたほうがいいの?」
 「だって……」
 いじめに遭うのは、だめな子だと思っていた。弱くて、とろくて、負けてる子がいじめに遭う ―― だから、わたしじゃない。
 認めなさい、と言われたらどうしよう。あんたはほんとうな弱くて、とろくて、負けてるから、いじめに遭ってるんだよ、と言われたら、どうしよう。
 でも、先生はそれ以上はなにも言わなかった。


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 子供の世界と大人の世界の違いは、子供の論理と大人の論理の違いだと思います。大人の世界の決まりごととは、責任の所在を明らかにし、証拠に基づいて物事を判断し、事実と推測を分け、単語を定義してから議論し、不用意に謝罪せず、善意が仇になる危険に注意を払い、ある時には毅然とした態度を取り、ある時にはお金の力を借り、いたずらに話を大きくしないこと等です。もっとも、人々の自己主張が強くなり、クレーマー対応で疲弊するようになると、大人の世界の論理も幼児化を免れないものと思います。

 人間が社会に出るまでに教育が必要な理由は、どんなに大人の論理が幼児化しても、それは子供の論理とは一線を画していることの理由と同じだと思います。子供の論理は、非論理的であり、なおかつ複雑であり、他方でそれを語るだけの語彙が少なく、しかも繊細であり、大人の世界の論理とは正反対の性質を多く有しています。その上、大人は誰しも子供の時代を通っているにもかかわらず、なぜかその世界の決まりごとを忘れ、どうしても思い出せないという悩ましいことになっています。

 学校がいじめの事実を確認したかどうか、いじめと自殺の因果関係はあったのか、このような問題の定立は、大人の世界の論理を前提としたものです。子供の世界で起きている出来事を大人が解釈し、それを子供の世界の論理に適用しようとしても、例によって派生的な問題が生じるだけだと思います。証拠によって事実を確定し、法的な責任の所在を明らかにするというルールは、あくまでも集団的に生きる際の方便です。大人になる前に人生を終えた子供を前にした場合には、誰が何を言っているのか良くわからないと感じます。