犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東野圭吾著 『怪笑小説』より

2012-09-29 00:06:21 | 読書感想文

「逆転同窓会」より p.103~
(教師の同窓会に昔の生徒達がゲストとして呼ばれた場面です。)

 生徒たちの同窓会に教師が呼ばれるのと、元教師たちの集まりにかつての生徒が呼ばれるのとは本質的に違うのだ。生徒たちの同窓会は、現在に生きる仲間たちが、ふと昔を懐かしむために集まるのだ。いわば現在の中に、過去を持ち込むわけだ。そして「過去」の代表として教師が招かれる。だが今回の催しは、それとは逆だった。過去の中に現在を持ち込んでしまったのだ。

 教え子たちはその後もしばらく、経営が悪化している会社の事例などを中心に、ぼそぼそと会話を続けた。その間、元教師たちは黙って彼等のやりとりを聞いているだけだった。内容が把握できないし、言葉も知らないものばかりだった。元教師たちは、すっかり元気をなくしていた。この企画が失敗であることを認めざるをえなかった。自分たちは大変な勘違いをしていたと思った。


***************************************************

 過去と未来が矛盾するところに現在が生じる、あるいは過去も未来も現在において存在するという哲学的思考は、時間が過去から未来に流れるという比喩とは相容れない部分があると思います。しかしながら、哲学研究者という肩書きではなく、人間としてその時間性の中に生きていれば、時間は過去から未来に流れるがゆえに、その不可解さに直面するという哲学的思考の生じ方があるように思います。

 「過ぎたことは過ぎたことではない」という直感や、「終わったことは終わったことではない」という切実感は、「時間とは何か」「過去はどこにあるのか」といった問題を外側から考える場合には生じようがないものです。過去は現在において存在することの説明に苦しむ者よりも、その自明の前提ゆえに「過去を過去にしたくない」と全身で感じる者のほうが、人間の時間性について自覚的なのだと思います。