犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『日本のリアル』より

2012-09-05 00:06:50 | 読書感想文

p.21~ 岩村暢子 「震災後、家族の絆は回復したか」より

 2011年は夏に、震災後の臨時調査をしました。新聞やテレビでは、しきりに「震災後家族の絆が見直された。そのため内食(家庭で食事をつくって食べること)が増えた」と言われていたので、それを確かめたかったのです。でも調べてみるとずいぶん違いました。

 外食は確かに一時的に減っていたけれど、それは外食というものが「出かけたついでに食べて帰る」「出かけていたから外で食べた」と外出に付随することが多いのに、「余震などが怖くて外出が減った」ためだった。また、内食になっていたのも「家族の絆」や「手づくり」を見直したわけではなかったのです。「計画停電」や「余震」があったためつくる気がしなくて、インスタントや出来合いが増え、食卓はむしろ簡単化していたのです。

 「家族の絆」についても、一般論としてはどの人も「家族の絆は大事」と語り、「(日本人は)今こそ見直した方がいい」と言うのに、「お宅ではどうですか」と問うと違った。「我が家には別に絆は必要ない」「ウチはこのままで特に見直すつもりはない」などと言う。直接被災された方々は全く違ったと思いますが、少なくとも私が調査した人たちは、メディアの語るようではなかったんです。


p.45~ 養老孟司 「ミーフェチ世代の登場」より

 そもそも実体としての「環境」など存在しません。本来、環境とは「自分の周り」のことであり、もっと正しく言えば「自分そのもの」なんです。江戸時代の人は誰も「環境」など語らなかったはずです。我々は土からもらったものを食べて、土に返している。だから田んぼは自分自身だし、田んぼを大事にするのは自分を大事にすることと同じでした。同時に、魚を食べるのは海を食べることでしたから、海も「環境」ではなく、自分自身でした。

 フランス革命において、「自由・平等・博愛」とわざわざ言葉で主張したのは、それがもともと「ないもの」だったからです。言葉にはそういうふうに「ないもの」を立てて存在させる機能もあるのですが、そこには怖さもあって、本来、存在しないものを、言葉を立てて、あるというふうにとらえてしまうと、まさかと思うようなところに「裏」が発生します。

 「環境」を立てた裏にできたのは、そこから切り離された「自己」です。本当は世界と自分はつながっていて当たり前なのに、「環境」と言った途端、「自己」が発生してしまう。政府が「環境省」をつくって自己を公認したとはそういうことです。


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 東日本大震災の後、どこの誰が最初に「絆」と言い始めたのか知らないまま、むしろどこの誰が言い始めたのか知らないがゆえに、日本人はあの震災によって「絆」を見直したのだということになりました。このような場面では現実と願望を区別することもできず、日本人の誰が言っているのかを特定することもできず、一種の暴力によって事実が確定されていくように思います。

 言葉には「ないもの」を立てて存在させる機能がありますが、このような分析をしたところで、今や多勢に無勢だと思います。「絆」という言葉を聞きたくない、そのような言葉に傷つくという心の機微は、マスコミによる世論誘導の危険性の問題として取り上げられることもなく、個人の思想の自由の侵害の問題にすらなりません。善意による暴力を受けた者は、そのことを誰にも知られないまま、沈黙と忍耐を強いられるのだと思います。