犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『あたりまえなことばかり』より

2012-09-16 23:24:30 | 読書感想文

p.198~

 人類における葬式・葬送の儀式とは、理解できないものとしての他者の死を、理解するための方策に他ならない。肉体の消滅をもって死とし、そこに文化的社会的なけじめを与えるのでなければ、われわれは、「その人は死んだ」と言うことが決してできない。なぜなら、死は存在せず、死は言葉としてしか存在していないからである。

 いつの世も、世界の事実に驚くのは常に子供である。子供は、他者の死という事実の意味が、わからない。必ずこう問うはずである。「おじいちゃんはどうしたの?」。賢しらな大人は答える。「死んだのよ」。しかし、これは答えになっていない。その「死んだ」ということの意味こそが、ここで問われているそのことだからである。

 「死ぬってどういうこと?」。なお問われて、大人はこう答えるかも知れない。「いなくなることよ」。むろん、これも答えにはなっていない。その、「いなくなる」とは、どういうことなのか。子供には、いた人がいなくなるということが不思議でたまらないのだ。「いなくなった」と言われて、次には必ずこう問うはずである。「今どこにいるの?」。

 肉体の消滅をもって死とするわれわれの方便が、無効になるのがここである。なるほど、その人の肉体は消滅したが、「その人そのもの」はどうなったのか。そう問われて、大人はもはや答える術を知らない。いなくなるということは無になるということなのよ、そう答えたくても、自分でも何を言っているのかよくわからない。そこで、苦しまぎれに、「お空にいるのよ」「天国にいるのよ」と答えてしまう。

 存在の事実に驚いた子供も、やがては賢しらな大人になり、人が死ぬということはどういうことなのか理解しているように思いこむに至るだろう。しかし、それがどういうことなのか、じつは全く理解していないにもかかわらず、「死んだ人はお空にいるのよ」という納得の仕方は、多くの人は大人になっても、基本的には変わってはいないのである。


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 仕事で骨肉の相続争いを数多く見ていると、そもそもの発端が、社会的儀礼であるところの葬儀に対する価値観の違いである場合が多いことに気がつきます。そして、お布施や香典といった具体的な対立点が出てしまえば、問題は行き着くとこまで行きます。

 「自分が死んだら葬式などしなくてもいい」といった遺言書があるばかりに、体面や世間体を重んじる親族の間で争いが起きる事例も目にします。骨肉の争いの不幸とは、「死とは何か」という哲学的問いから逃げる人間の幸福の一種なのではないかと感じることがあります。