犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

NHKスペシャル 『水玉の女王~草間彌生の全力疾走』

2012-09-30 21:52:23 | その他

9月28日 NHKスペシャル より

番組の紹介より
 張りつめた糸が切れそうで切れない。83歳の前衛芸術家の姿に、そんな感覚を抱いた。1~3日に1点のペースで作品を生み出すという。その一方で、自殺の恐怖にさらされ、病院とアトリエとの行き来が欠かせない。カメラは、筆を持った時に見せる鋭い眼光を捉えたかと思えば、病院で「自分が自殺しそうで」と苦悩を語る姿を映し出す。

番組内の本人の言葉より
 草間彌生のカルテには、不安神経症となってるんですよ。強迫神経症と。自分が自殺思想でいたたまれなくて、毎日毎日自殺の恐怖に、今でもさらされてきて、今もそう。外に一人で買い物にも行かれないくらい不安がいっぱいなんです。絵の力で生きていく道を探したわけですけど、もしそれがなかったら私はとうの昔に自殺していたと思います。


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 芸術のセンスのない私には作品を見る眼はありませんが、人間の狂気はテレビを通じても十分に伝わることを知りました。思わず見入ってしまうか、思わず目を逸らしてしまうか、凡人に可能な姿勢はどちらかだと感じます。強迫神経症という病名はとりあえずの解答であり、正確には「水玉を書いていないと死んでしまう病」というより説明がつかないと思います。人は自殺しようがしまいが最後には死があり、その死は無であり、その無は存在しない以上、正気を貫徹した先に狂気があり、個々の水玉は正気のバランスを取るための血の固まりだと直感します。

 「誰が神様ですか」という質問に草間彌生が「私」と答えている場面がありましたが、ここは非常に誤解を受けやすく、既成の宗教からも唯物論的無神論からも理解されない部分だと思います。「誰が神か」という問いに正確に答えようとすれば、自分がこの自分であることが説明できなければならず、しかも人生が過酷であればあるほど教団も教理も役に立たないという事実を直視したうえで、死について主体的である自分の全存在に責任を持たなければならず、「私」と答えるしかないと感じます。

 他人から求められた仕事ではなく、自分の死に責任を負う自分の声のみに従わざるを得ない権利と義務を持つ者の関心は、絶対的な自分でしかあり得ないと思います。すなわち、他人の目を気にした上での相対的な自分というものは存在し得ないはずです。作品に破格の値段がつくという部分が目を引くため、世俗的な注目が集まるところも決まっており、ここも固定観念による解釈が多いと思います。「有名になりたい」「後世に名を残したい」といった世俗的な欲望がある者であれば、これだけ社会的に成功した上で毎日自殺の恐怖に苛まれることは不可能です。

 以下は、自分の仕事に引き付けた強引な推論ですが、「何かをやっていないと死んでしまう」という悲痛な狂気を伴って裁判をしている人は多いと感じます。そして、その自殺と隣り合わせの狂気はほぼ間違いなく誤解され、「苦しく長い裁判を闘っている」と表現され、ある時には「精神的苦痛を金に換える裁判」「負けることが解っていて腹いせのために起こした濫訴」と誹謗されているように感じます。憲法13条が個人の尊厳と生命尊重を第一としているならば、「裁判をしないと死んでしまう」という言葉をもう少し深く捉えるべきだと思います。

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