犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

内田樹著 『街場のメディア論』 より (2)

2012-09-27 00:02:55 | 国家・政治・刑罰

p.29~

 いま支配的な教育観は「自分ひとりのため」に努力する人間のほうが「人のため」に働く人よりも、競争的環境では勝ち抜くチャンスが高いという判断の上に成り立っています。私利私欲を追求するとき人間はその資質を最大化する。隣人に配慮したり、「公共の福利」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する(嫌々やらされているから)。それが現代日本において支配的な人間観です。

 だから、子どもたちの能力を上げようとしたら、とにかく苛烈な競争の中に叩き込めばいいと教育行政の人たちは考えている。でも、やってみたら、そうはならなかった。人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。


p.187~

 無償で読む無数の読者たちの中から、ある日、そのテクストを「自分宛ての贈り物」だと思う人が出てくる。そのときはじめて著作物は価値を持つ。そのような人が出てくるまで、ものを書く人間は待たなければならない。書物の価値は即自的に内在するのでなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。

 けれども、商取引モデルで書籍を論じる人は「待つ」ということができない。それは「待つ」ことは「損すること」だと教えられているからです。ビジネスマンの理想は「無時間モデル」です。商品の引き渡しと代金の支払いの間のタイムラグがゼロであること、それがビジネスマンの夢です。贈り物が何人かの手を経巡って、何巡目かで「これは贈り物だ」と思う人に出会うまで待つ、というような理路は彼らには理解不能です。


p.63~

 「まず被害者の立場を先取する」というのは、90年代くらいから日本社会で一般的となったマナーです。「被害者=政治的に正しい立場」というのは、もともと左翼の政治思想に固有のものですから、フェミニズムやポスト・コロニアリズムの文脈で、そういうマナーが出てくるのはわかるのです。でも、それはあくまで「マイノリティの立場」「弱者の立場」であることが前提です。

 社会的な資源の分配において、あきらかにフェアではないかたちで差別されている人々が「被害者」性を前面に立てて、「被害補償」を「正義の実現」として主張するのは合理的なふるまいです。でも、自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、「資源分配のときに有利になるかもしれないから」とりあえず被害者のような顔をしてみせるというマナーが「ふつうの市民」にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆる「クレーマー」というものです。


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 犯罪に対し日本の世論が厳罰化に向かっている、あるいは裁判員制度が導入されて重罰化が進んだといった論評は、大衆化を前提とした右傾化という現状認識に基づいているものと思います。国家権力からの自由保障機能を論じる法律学では、このような左右の二元論の枠組みに拠らなければ、そもそも議論に乗れないところがあります。これに対し、そのような枠のない思想家の内田氏の分析は、より現状を正確に捉えていると思います。

 「被害者=政治的に正しい立場」という思考が左翼の政治思想に固有であるとすれば、裁判において被害者を踏みつけて加害者の味方をする左翼の政治思想は、この場面では逆を向いているものと思います。すなわち、犯罪の場面における被害者は、「被害者=政治的に正しい立場」ではあり得ません。「被害者」「遺族」という肩書きを強制されて真に絶望せざるを得ないとき、人は政治的に正しいも正しくないもないはずだと思います。

 損害賠償請求の民事訴訟を起こす被害者や遺族に対して、匿名のネットでバッシングが向けられる場面を目にします。「結局は金が目的なのか」「クレーマーだ」というような内容であり、私はそのような文字を見ると全身から力が抜けます。大衆化を前提とした右傾化という現状認識だけでは、この状況は説明がつかないと思います。ここでの右傾化は、「被害者=政治的に正しい立場」という左翼的思考が拒否され、「私は被害者です」という被害者性が叩かれているのだと思います。

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