犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その3

2012-04-04 23:25:40 | 時間・生死・人生

●保育士の立場

 現場で園児を引率していた保育士の事故の瞬間の思考を正確に述べようとすれば、「頭が真っ白になった」としか言えず、これが言語の限界だろうと思います。また、その瞬間の迫真性を担保するものは、その瞬間の精緻な分析ではなく、その瞬間の前後の時間との相関だと思います。すなわち、過去との関係においては、それまでの人生で積み上げてきた日常生活上の悩みごと、争いごとのレベルの崩壊です。未来との関係においては、崩壊した価値観と世間の常識との不一致です。

 「自分がもっと気をつけていれば事故は防げたかも知れない」「自分が殺したのだ」という自責の念は、激しい精神の消耗を招くものと思います。これは、目の前の仕事への誇り、遡ってこの仕事を目指してきた自分の人生、すなわち全ての過去を含むところの現在を破壊する自傷行為です。今の今まで生きていた園児が、何の罪もないのに今は生きていないという人命の儚さと死の不可解さに対する行き場のない心情は、人を当然に自傷行為に向かわせるものと思います。

 ところが、人は社会人である限り、このような倫理の問いを純粋に掘り下げることは困難です。このことは、生き残った後ろめたさを持つ者にとっては見逃せない真実であり、死者にとっては絶望だと思います。保育園の組織の論理としては、一職員が組織の意思統一を破って責任の所在や因果関係の存否を語ることは許されないでしょうし、社会通念からくる常識論は、保育士は同時に多くの子供に対して責任を負っている以上、1人の子供のみに感情移入することは無責任であるとの評価を下すものと思います。

 人間が社会人・組織人としての職責を全うするための精神力の強さの内実は、「全ての責任を引き受けた上で耐える能力」という机上の空論ではなく、「全ての責任を抱え込まない処世術の会得」であり、保身の欺瞞性から免れることは困難だと思います。自責の念によって精神を病む者に対しては、単に「健康管理がなっていない」との非難が向けられるのみであり、賞賛は与えられないのが経済社会の決まりごとだと思います。


●下請の社員の立場

 現場にいた業者の事故の瞬間の心情を正確に述べようとすれば、やはり「頭が真っ白になった」としか言えず、これが言語の限界だろうと思います。但し、保育士の場合とは異なり、自身の存在が全身的に揺さぶられるのはその瞬間ではなく、揺さぶられるのは将来であり、その間に解釈の生じる余地があるものと思います。これは、自身には責任がないことを正当化する論理の構築です。

 下請は元請の指示に従うしかなく、予算もないのに勝手に作業内容を変えることはできないとの業界内部の通念は、それに従った思考の枠組みを強制します。「なぜ危ないと思ったら元請に言わないのか」という非難に対する答えは、「言えるわけがない」以外にあり得ないものと思います。業界の内情も知らないのに、聞きかじりのニュースだけで非難するような意見は聞くに値しないということです。

 この世の全ては、命あっての物種です。人の命は重く、しかし人の命は儚く、人は死なないためには食べる必要があり、そのために人は仕事をします。ところが、「人が仕事をする際には常に安全第一を心がけ、1つ1つの作業の際には人命尊重を最優先にすべきだ」と言えば、現実離れした世間知らずの発想であるとして一笑に付されます。この笑いは、あくまでも自分の命は重く、しかもその命は失われていないことが前提です。

 人の命が危ないなどとは「言えるわけがない」という常識論の中で生かされているとき、そこは常態として人の命が失われる戦場であり、実際に人の命が失われたとしても、その非日常性に改めて驚くことは困難なのだろうと思います。生命と死の関係について頭ではわかっていても、心の奥底から上手く理解できていない状況において、人が言葉の本来の意味での謝罪や反省を行うことは困難です。これも死者にとっては絶望だと思います。

(続きます。)

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