私が音声言語を文字言語に変換する職務を遂行する過程において、多数の方々と対面して再認識したのは、人間のほとんどの言葉が持つ一定の方向性でした。それは、互換性のある人間存在から個々の立場を論理的に導くものではなく、その唯一の立場の中心性から他の立場の周辺性を志向するという磁力のようなものでした。そして、この力は、実生活に根ざした迫真性のある言葉であろうと、小賢しい机上の空論であろうと、人の言葉には同様に備わっていました。
社会とは、人間の集まりの別名に過ぎませんが、その別名に過ぎないものが改めて社会と呼ばれるとき、それは人々のそれぞれの思惑が複雑に絡み合う空間となります。いかに自己中心的な人間が醜くても、その醜さを告発するのは別の自己中心性でしかなく、いかに利他的な人間が尊くても、その尊さの発生点は自己中心性です。裁判においては証拠の隠滅や捏造、偽証や証人威迫が殊更に問題視されますが、大した問題ではないと思います。
ある立場から発せられた音声言語は、その者によって中心点であるとされた点からの位置関係が明確であり、文字言語による写し取りの規則は定型化しています。これは日常言語のルールと全く変わりません。この事故に関して、私が「保育園の職員」「工事会社の社員」と書いているとき、個々の人間の考え方の差異は無視して一般化し、かつそれ以外の場所(家庭など)における立場は無視しています。逆に、「園児の親」と書いているとき、それ以外の場所(会社など)における立場は無視しています。
日常言語のルールは、「被害者」「被害者遺族」という立場を設け、これによって他の立場の中心点からの距離を測り、位置関係を定めます。法律の専門用語は精密に定義を行いますが、その定義自体が日常言語のルールに則っており、この外に出るものではありません。そして、民事裁判は所詮はお金の問題であり、刑事裁判は所詮は刑罰の問題であり、人々のそれぞれの思惑が複雑に絡み合う社会の空間における争いです。そして、そのことが、問題の入口を逆にしているように思います。
私が裁判の現場に携わり、音声言語を文字言語に変換する職務に従事してきて感じたことは、「被害者」「被害者遺族」はいかなる意味でもここに言う「立場」「中心点」ではなく、「思惑」を有することはあり得ないという事実でした。
(続きます。)