犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

重松清著 『十字架』より

2010-06-20 00:23:16 | 読書感想文
p.62~

 ひとを責める言葉には二種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
 ナイフの言葉。十字架の言葉。
「その違い、真田くんにはわかる?」
 大学進学で上京する少し前に訊かれた。僕は18歳になっていて、本多さんは30歳だった。答えられずにいる僕に、本多さんは「言葉で説明できないだけで、ほんとうはもう身に染みてわかっていると思うけどね」と言って、話をつづけた。
「ナイフの言葉は、胸に突き刺さるよ」
「……はい」
「痛いよね、すごく。なかなか立ち直れなかったり、そのまま致命傷になることだってあるかもしれない」
 でも、と本多さんは言う。「ナイフで刺されたときにいちばん痛いのは、刺された瞬間なの」
 十字架の言葉は違う。
「十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いてるかぎり、ってことは、生きてるかぎり、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ」
 どっちがいい? とは訊かれなかった。
 訊かれたとしても、それは僕が選べるものではないはずだから。
 代わりに、本多さんは「どっちだと思う?」と訊いてきた。「あなたはナイフで刺された? それとも、十字架を背負った?」
 僕は黙ったままだった。
 しばらく間をおいて、本多さんは「そう、正解」と言った。


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 過ちを犯した者には社会復帰、立ち直り、更生、再出発の権利がある。しかし、それを阻害しているのが社会の偏見、無理解、差別意識である……。
 私は、刑事政策学を専門として学びながら、その主流の理論が描く上記の単純な図式に対し、根本的な疑問を抱き続けてきました。あまりに手応えがないからです。
 ナイフの言葉と十字架の言葉の違いが聞き分けられる者は、「被害者の厳罰感情を和らげるために被害者支援策を進めるべきである」という思考に流れるはずがないとも思います。