犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

重松清著 『十字架』より

2010-06-21 00:03:28 | 読書感想文
p.278~

「苦しむことで伝える愛情って、あるんじゃないですかね」
「どういうこと?」
「兄貴のために、親父もおふくろもずーっと苦しんできて、ほんとに苦しい思いをしてきて、2人ともキツかったんだと思うんですけど……その代わり、苦しんでる間は、ずっと兄貴がそばにいたんじゃないかな、って……お父さんもお母さんもおまえのためにこんなに苦しんでるんだぞ、って思うことが、親として、救いみたいなものになってたんじゃないか、って」
 だってね、と健介くんはつづけた。
「兄貴が苦しんでるときに気づいてやれなかったんだから、せめて兄貴がいなくなってから思いっきり苦しんでやらないと、親の務めをなにも果たせないじゃないですか」
 告別式の日に僕の胸ぐらをつかんできた、あのひとの姿が浮かんだ。卒業式の日にフジシュンの遺影を高々と掲げた、あのひとの姿も浮かぶ。
 でも、それも遠い昔の日々のできごとになってしまった。
「なんかね、親父もおふくろも、傷口のかさぶたが乾きかけたら爪でひっかいて剥がして、また固まってきたら剥がして、っていうのも繰り返してきたような気がするんですよ」
 そうかもしれない。忘れていたつらい思い出がふとよみがえるのは、自分でも気づかないうちに、心が勝手にかさぶたを剥がしている、ということなのかもしれない。
「2人とも、ほんとうは立ち直りたくなかったんじゃないかなあ……」


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 人が言語の限界を突き詰めて、語るに語れないことを語ろうとするときに用いられるのが比喩だと思います。他方で、人が深く物事を考えず、自分の言葉に酔っているときに用いられるのも比喩だと思います。

 私はこれまで、新聞や本、ブログなどで心の傷口に対する「かさぶた」の表現を目にして、いつも同じように言語の限界を内側から見てきました。私は、「かさぶた」の比喩を語れる人を無条件に尊敬すると決めているわけではないのですが、結果的にそうなっています。