犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある過労自殺の裁判の光景

2010-06-11 00:14:10 | 時間・生死・人生
 目が覚めて時計を見ると、夜中の3時であった。今日も睡眠導入剤がほとんど効かない。息が苦しく、何とか深呼吸して切り抜ける。また嫌な夢を見たようだが、内容は忘れた。会社の書類の山は、寝ても覚めても彼を押し潰す。そして、書類の山は、彼の仕事量に比例するかのように高くなってゆく。
 ここ数か月、偏頭痛と胸の痛みが治まらない。月120時間の残業時間に過労死の危険性があることは、言われなくてもわかっている。しかし、残業時間を数値で計測できるのは、仕事が終わってからの結果論にすぎない。その瞬間瞬間には、「この仕事を終わらせればあとは楽になる」という希望だけがある。
 彼において、現実の時間として存在するのは「納期」だけである。彼が納期に遅れてしまうと、まず10人に影響が出て、その影響によって50人に影響が出て、さらに100人に影響が出て、迷惑が無限に拡散する。この事実を身をもって知り抜いている人間にとっては、残業とは「しなければならない」ものではなく、「進んでやりたい」ものとなる。

 彼が次に時計を見ると、朝の6時半であった。寝られたのか寝られなかったのか良くわからない。会社に行きたいのか行きたくないのかも良くわからない。上司に理不尽に怒られ、取引先からは催促の電話で文句を言われるだけであれば、行きたくないに決まっている。しかし、彼の本心は、なぜか会社に行きたいと思っている。別に責任感が強いわけというわけでもない。
 朝食の途中で、彼はコーヒーカップを床に落とした。カップは粉々に砕け、飲みかけのコーヒーは一面に飛び散った。なぜ落ちてしまったのか、彼にはその一瞬の記憶がなく、妻に上手く説明できなかった。今までに一度もなかったことであり、彼にとっても常識では考えられない出来事だったからである。そして、「取り返しのつかない結果には何かの前兆がある」とのフレーズが頭をよぎった。限界が近いのかも知れないと思った。
 妻は、彼の失敗を激しく怒り、掃除をしてから会社に行くように命じた。もちろんそのような時間はなかったため、彼がそのように伝えると、妻は「掃除をさせられるほうの身にもなってよ」と鬼の形相で言った。その瞬間、彼は足元がガラガラと崩れる感覚がした。最悪の事態の前兆を妻に把握してほしいというのは、彼の単なる甘えである。彼は、妻を激しく睨み返すと、そのまま無言で家を出た。

 今日は、まず彼のミスを上司に報告して謝罪しなければならない。ミスの原因は良くわかっている。短い時間内に、同時並行で5つも6つも処理を行っているからである。1つのことが終わらないのに別のことを言いつけられ、それが終わらないのにまた別のことを言いつけられる。そして、「だいぶ前に言ったのに何でやらないんだ」と怒られる。社会人である以上、「手が回りません」という言い訳は許されない。
 人間の能力には限界がある。焦れば焦るほど確認や見直しの手順は飛ばされ、ミスをしやすくなる。情報を整理する余裕のない人間の頭は、簡単なミスを発見することもできない。しかし、このようなことでは、この社会は生きられない。ミスとは、すべて本人の緊張感の欠如から生じるということになっている。そして、この点を激しく叱責され、謝罪と反省の言葉を述べることは、人間の弱っている心をさらに弱らせることになる。
 彼の連日の深夜の残業が報われたことはない。疲労によってミスを犯し、会社に迷惑を掛けただけである。評価などもっての外である。この社会の厳しさに耐えられない者は、この社会では生きられない。失格である。社会は甘くない。この社会に生きる場所はない。これが論理の帰結である。彼は、吸い込まれるように線路に落ちる自分の体を止めることができず、彼の体の上を電車が通った。
 
 彼の妻が会社に起こした損害賠償の裁判は、先行きに暗雲が垂れ込めていた。弁護士は妻に対し、彼が会社の悩みを自宅で話していなかったか、自殺をほのめかすような話はなかったかと繰り返し聞いたが、彼女にはピントがずれた質問のように思えた。そもそも彼女が裁判を起こさなければならないと思ったのは、彼が会社の苦労を自宅に持ち込まず、妻の前では明るい顔をしていたことを見抜けなかった後悔からである。
 「大事なコーヒーカップを割ってすみません。掃除をしないですみません。情けない夫で申し訳ありませんでした。許してください。さようなら。」 これが、彼女の携帯電話に最後に送られてきたメールである。弁護士は、このメールは裁判に悪影響を及ぼすので、双方の携帯電話から削除するように言った。それは絶対にできないと彼女が言うと、弁護士は困惑と不満が入り混じったような顔をした。彼女は、この人には話が全く通じないと思った。
 彼女が義母に転送した最後のメールは、息子の死の真相を知りたい母親によって、彼の同僚に転送された。このメールは、さらに彼の上司に転送され、会社側の弁護士に転送され、被告会社側からの証拠として提出された。彼女の弁護士は、彼女と義母の行為に激怒し、原告がこれでは勝てるはずがないと言った。


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判決

主文 原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。

 死因や疾病の国際的な統計基準として世界保健機関(WHO) によって公表された分類である「ICD-10」(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)のF0からF4の精神障害の患者が自殺を図ったときには、当該精神障害により正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定されている。従って、Aの自殺の原因が会社や上司に存在するか否かは、「ICD-10」のF3の分類のうち、「F32.0」の軽症うつ病エピソードに該当するか否かが争点となる。

 Aと妻との会話が上手く行かなくなった事実は認められるものの、それだけではAがうつ状態などの精神的に不安定な状態にあったとは認められず、被告会社をして、社会通念上従業員をして自殺を考えさせる程度にまで肉体的・精神的に疲労させたと認めるのは困難であり、何らかの自殺防止策を採るべきであったとまでは認めることはできない。また、Aが理不尽に上司から暴言を吐かれたと認めるに足りる証拠はなく、上司らの裁量を逸脱した厳しい叱責によりAがうつ状態等の精神不安定な状況に陥っていたことを窺わせるような事実は認められない。
 
 Aにとって長時間の残業が肉体的・精神的に負担であったとしても、それが自殺を思い詰める程度に達していたとは到底いえない。また、会社にはAがそのような状態であると聞いた者がいないことを併せ考慮しても、Aが以前から自殺しようと思い詰めていたとは考え難く、被告がAの自殺を予見できる状況にあったとか、これを回避するための措置を採ることが可能であったということもできない。

 また、Aは自殺の直前、原告に対し「大事なコーヒーカップを割ってすみません。掃除をしないですみません。情けない夫で申し訳ありませんでした。許してください。さようなら。」とのメールを送信しており、これが自殺の直接的かつ強固な動機を示しているところ、ここに原告の主張するような長時間労働による精神的な負担を看取するに足りる要素はない。また、Aは長時間労働による疲労によってコーヒーカップを落とした旨の主張は原告らの独自の見解によるものであり、これを裏付ける文献もない。

 よって、Aの自殺の動機は結局のところ不明であると言わざるを得ないのであって、被告に従業員に対する安全配慮義務違反があったと認めることはできない。そうすると、原告の被告に対する本訴請求には理由がない。よって、主文のとおり判決する。


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フィクションです。

「ちいさな風の会」 世話人 若林一美さん

2010-06-08 23:57:46 | 時間・生死・人生
朝日新聞 平成22年6月7日夕刊 『語る人』より

 近ごろ肉親や友人を亡くした悲しみを癒す「グリーフ(悲嘆)・ケア」に関心が寄せられている。その先駆である、わが子を亡くした親たちが集う「ちいさな風の会」が今月、設立から23年目を迎えた。世話人として活動を支えてきた若林一美さんに、改めて会の意味を聞いた。

 ――22年間で変わったことは。
 最初は病気で子どもを亡くした親が多かったのですが、その後は自死の割合が増えています。また会員の多くは母親ですが、5年くらい前から父親が増えています。団塊世代が定年にさしかかり、わが子の死と向き合い、悲しみを率直に話せる男性が増えてきたのかと感じています。

 初めての参加者は苦しみから逃れるすべを求めて来るのですが、それにはこたえられない。互いの悲しみに耳を傾けるだけです。進歩も変化もしない。ただ、初めて来た人が安心できる場所でありたいと思ってきました。

 「子どもを失ってなお、なぜ私は生きつづけるのか」という親たちの苦しみは、癒すとか乗り越えるというものではありません。「人はなぜ生きるか、なぜここに私がいるのか」という生の神髄そのものです。それを10年、20年かけて語り合う。遺族の時間は本当にゆっくりとしか流れません。そんな時間を共有することが、現代では少なくなっている。それを必要とする人がいる限り、この会は続けられると思います。


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 「癒すとか乗り越えるというものではない」「生の神髄そのもの」といった言葉に接すると、ど真ん中にストライクを投げ込まれた感じがします。そして、生の神髄そのものは、法律を初めとする社会のルールによって答えが出るようなものではないと改めて思います。
 法治国家は、事件・事故から過労自殺・いじめ自殺に至るまで、「問いの答えは裁判所にある」との仮説によって支えられています。しかし、実際には「裁判所はそのような場所ではない」との答えが返ってくるのみであり、二次的被害が生じることが多いように思います。

 裁判の手続は、遺族が厳罰感情を和らげてもらわないと和解や示談が成立せず、システムが効率的に回らなくなります。そのため、「わが子の死と向き合う」「10年、20年かけて語り合う」といった種類の言葉は、あからさまに邪険にされるようです。
 客観的にシステム化した法律論は、内面の悲しみのようなものについては、「自助団体のさらなる発展が期待されよう」などと簡単に言って済ませています。そして、実際の団体の活動については興味がなく、裁判の中で生み出された二次的被害まで自助団体に任せられているのが常態のように思います。

映画 『RAILWAYS』

2010-06-06 00:44:45 | その他
 この映画の公式な解説は、次のようなものです。「仕事に追われ、家族を省みることのなかった50歳目前の男が、ふと人生を振り返り、幼いころの夢を追い求め始める感動ストーリー。一畑電車の走る島根の風土を描きながら、家族や仕事といった人生の普遍的なテーマを扱った深遠なストーリーが感動を呼ぶ」。この解説はまさにその通りであり、この映画の全てが言い表されているように思います。そして、何も言い表されていないように思います。

 世の中の多くの場面では、「誰がやっても同じ結果となること」が求められるため、自分の人生が自分の人生でなくても構わないのが実際のところだと感じます。そして、他人が自分の人生を生きているような感覚を持ちつつも、その感覚を麻痺させなければ生きられないのも実際のところだと感じます。このような複雑なシステム内における芸術(映画・美術・文学など)とは、システムの本流においては切り捨てられており、あえて表現したところで初めて顕在化するような、不確実な何物かを探す過程であるように思います。

 人が自分の人生を振り返って感じたことは、他人とは共有し難いものであり、絶対に交換不可能な要素であるはずです。それにもかかわらず、人が自分の人生を振り返るという形式において通底するところがあれば、それは芸術にしかなし得ない効果であり、芸術の存在意義そのものであると思います。作品は作者の手を離れて一人歩きし、しかも作品の側が見る人を選ぶのであれば、その空間以外に架空の人物が存在する場所もないでしょう。安易に「感動した」「癒された」などと言いたくありません。

池田晶子編・著 『2001年哲学の旅』より

2010-06-04 23:24:22 | 読書感想文
p.75~ 池田晶子氏(哲学者)と戸塚洋二氏(物理学者)との対談より


池田: 哲学の方面からいうと、やはり究極の課題は、現象的に個体の死であるところの、つまり「無」とは何かということになるんですよね。

戸塚: 「無」というのは、要するに認識できないということですよね、定義としては。

池田: 大宇宙は存在しているとしか言いようがないわけで。

戸塚: でも、認識できるできないっていうのはあくまでも個人の問題ですよね。

池田: 個人?

戸塚: 自分がないんですよ。それと、大宇宙のこの複雑きわまりない対象物とは、われわれにとっては全く別なような。

池田: 大宇宙の複雑きわまりないによって、このわれわれができているというふうに考えれば、まさにこれこそが複雑きわまりない不思議のはずですから。

戸塚: いや、大したことじゃないよ、そんなことは。

池田: そこは、だって矛盾しちゃいますよ。

戸塚: そうかな。全体のほうがこんなに小さなものよりもよほど複雑と思いますし。

池田: でも、進化論説によるとするなら、その果てのわれわれが、まさにその全体の現象でしょう。

戸塚: いや、果てじゃないんですよ。まだわれわれは全然。大した進化じゃないですから。その1つの現象にしか過ぎないんじゃないのかと思っているんですけどね。

池田: そうですね。ただ、その不思議ですね。

戸塚: そこが全然不思議じゃないんですけど(笑)。

池田: どうしてかな。だって、大宇宙が存在するから、これ(自分の身体を指す)が存在してると思うんですよね。

戸塚: それは自明ですよね。

池田: 同じことも不思議じゃないですか。

戸塚: 全然不思議じゃない。

池田: あれ~? じゃあ、客観的実在としての物理的宇宙というのは、もうスパッと別なことのわけですね、先生にとっては。

戸塚: つまり、個人的な認識と、対象物としての自然が全然別なんですよね、多分。そういうふうに言ったらいいのかな。

池田: でも、「見る」ということ自体が、その対象に関わるということですから、やはり別とは言えませんよね。

戸塚: そこが違うんですよ。われわれは、すべて客観化しちゃうんですよ。客観化というか、対象……。

池田: そこが違うんだな。

戸塚: 全然違いますよ。


(※池田氏は平成19年に、戸塚氏は平成20年に亡くなりました。)

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 この噛み合わない対談を急に思い出したのは、4日の千葉景子法務大臣の記者会見からです。同法相は、死刑制度についての議論を起こすことができず反省していると述べていましたが、死刑とは死を含むものであり、現象的に個体の死であるところの「無」とは何かということが究極的に問題にならざるを得ないとすれば、その議論は、上記の如く全く噛み合わないものになると思われます。

 「命の重さは命でしか償えない」という直観を述べたときに、「命の重さを示すのに命を奪うのは矛盾だ」との反論が返ってきたならば、思わず「あれ~?」という単語が出てくるように思います。そして、その「あれ~?」は、上記の池田氏のそれと似ているように思います。仮に国民的な議論が起きるとすれば、それは「無」とは何かという究極の問題に気付かない政治論であり、さらに噛み合わないと感じます。

 政治論であれば、「被害者遺族の厳罰感情を考慮する」という思考方法は有効でしょう。しかしながら、その実質は、存在と無に関する思考が万人に開かれており、しかも万人には可能ではない事態において、最愛の人の突然の不在によって、存在と無に関する問いが自ずから立ち、しかもそれが何かを知りたい切実な欲求でありながら、それが何であるか全くわからないというのであれば、それは「厳罰感情」とは似ても似つかない哲学的思考だと思います。

横浜市中区・弁護士殺害事件

2010-06-03 23:51:06 | 時間・生死・人生
別の弁護士事務所にて


弁護士1: どんな理由があれ、絶対に許せない犯罪だな。

弁護士2: 問答無用で刃物を持ち出すなんて許し難いですよね。

事務員: そうですね。(昨日は過ちを赦すことの大切さを語ってませんでしたっけ?)


弁護士1: それにしても、早く犯人が逮捕されないと困るよなあ。

弁護士2: 近いうちに指名手配されるでしょうし、逃げ切れないでしょう。

事務員: そうですね。(判決が確定するまで無罪の推定が働くはずでは…?)


弁護士1: とにかく、これは弁護士業務に対する重大な妨害だよなぁ。

弁護士2: 弁護士事務所に乗り込んだところが我々に対する挑戦ですよね。

事務員: そうですね。(殺されたのは誰でもいいんですか?) 


弁護士1: 暴力による脅迫には、一歩も引かずに毅然と対処しなけりゃならんね。

弁護士2: 犯人に弁解の余地はないでしょう。

事務員: そうですね。(逮捕されたら、弁護士の誰かが付いて弁解するんですが…)


弁護士1: それにしても、殺される前に何とかならなかったのかなあ。

弁護士2: 周りが体を張って守るとか、できそうなもんですけどね。

事務員: そうですね。(私はまっぴらです。)


弁護士1: ところで、こういう時の香典はいくら包むんだ?

弁護士2: わかりません。まあ、弁護士ですから、相当集まるんじゃないですか?

事務員: そうですね。(やっぱりお金の話ですか。)


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フィクションです。

曽野綾子著 『太郎物語・大学編』

2010-06-01 23:37:17 | 読書感想文
p.88~

 あらゆることに図太くあることが、太郎の理想なのだが、大ていの場合うまくいかない。図太くあるということは、しかもどういうことなのだろう。生れつき図太いという人間がもしいるとしたら、それは、鈍感ということなのだと思う。
 本当は感じているのだが、いろいろ考えてジダバタしてみても仕方ないので、じっと軽挙妄動せず、かつ、或る程度、あきらめてしまうことが、図太くなる道だ、というふうに、目下のことろ、太郎は考えている。

 太郎は、本田悌四郎を決して嫌いなのではなかった。父方の親戚の中では、むしろ好きなタイプであった。第1に、本田悌四郎は威勢が悪い。水割りのビールをちびちびすするような表現は、見栄っ張りの正反対なのである。太郎がなぜ、見栄っ張りを嫌うかというと、多くの見栄っ張りは弱いからであった。
 本田悌四郎のもう1つ立派な点は、人間や世の中を見る目が確かなことである。外界が、穏やかに、しかもよく見えると、人間は自然に、落ちついて、肩の力を抜くことができるものらしい。つまり精神が、もっとも、その人らしくふるまえるようになる。


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 平成22年に生きる社会人の私は、昭和51年の大学生である太郎君から教えられることがとても多いです。