犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子編・著 『2001年哲学の旅』より

2010-06-04 23:24:22 | 読書感想文
p.75~ 池田晶子氏(哲学者)と戸塚洋二氏(物理学者)との対談より


池田: 哲学の方面からいうと、やはり究極の課題は、現象的に個体の死であるところの、つまり「無」とは何かということになるんですよね。

戸塚: 「無」というのは、要するに認識できないということですよね、定義としては。

池田: 大宇宙は存在しているとしか言いようがないわけで。

戸塚: でも、認識できるできないっていうのはあくまでも個人の問題ですよね。

池田: 個人?

戸塚: 自分がないんですよ。それと、大宇宙のこの複雑きわまりない対象物とは、われわれにとっては全く別なような。

池田: 大宇宙の複雑きわまりないによって、このわれわれができているというふうに考えれば、まさにこれこそが複雑きわまりない不思議のはずですから。

戸塚: いや、大したことじゃないよ、そんなことは。

池田: そこは、だって矛盾しちゃいますよ。

戸塚: そうかな。全体のほうがこんなに小さなものよりもよほど複雑と思いますし。

池田: でも、進化論説によるとするなら、その果てのわれわれが、まさにその全体の現象でしょう。

戸塚: いや、果てじゃないんですよ。まだわれわれは全然。大した進化じゃないですから。その1つの現象にしか過ぎないんじゃないのかと思っているんですけどね。

池田: そうですね。ただ、その不思議ですね。

戸塚: そこが全然不思議じゃないんですけど(笑)。

池田: どうしてかな。だって、大宇宙が存在するから、これ(自分の身体を指す)が存在してると思うんですよね。

戸塚: それは自明ですよね。

池田: 同じことも不思議じゃないですか。

戸塚: 全然不思議じゃない。

池田: あれ~? じゃあ、客観的実在としての物理的宇宙というのは、もうスパッと別なことのわけですね、先生にとっては。

戸塚: つまり、個人的な認識と、対象物としての自然が全然別なんですよね、多分。そういうふうに言ったらいいのかな。

池田: でも、「見る」ということ自体が、その対象に関わるということですから、やはり別とは言えませんよね。

戸塚: そこが違うんですよ。われわれは、すべて客観化しちゃうんですよ。客観化というか、対象……。

池田: そこが違うんだな。

戸塚: 全然違いますよ。


(※池田氏は平成19年に、戸塚氏は平成20年に亡くなりました。)

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 この噛み合わない対談を急に思い出したのは、4日の千葉景子法務大臣の記者会見からです。同法相は、死刑制度についての議論を起こすことができず反省していると述べていましたが、死刑とは死を含むものであり、現象的に個体の死であるところの「無」とは何かということが究極的に問題にならざるを得ないとすれば、その議論は、上記の如く全く噛み合わないものになると思われます。

 「命の重さは命でしか償えない」という直観を述べたときに、「命の重さを示すのに命を奪うのは矛盾だ」との反論が返ってきたならば、思わず「あれ~?」という単語が出てくるように思います。そして、その「あれ~?」は、上記の池田氏のそれと似ているように思います。仮に国民的な議論が起きるとすれば、それは「無」とは何かという究極の問題に気付かない政治論であり、さらに噛み合わないと感じます。

 政治論であれば、「被害者遺族の厳罰感情を考慮する」という思考方法は有効でしょう。しかしながら、その実質は、存在と無に関する思考が万人に開かれており、しかも万人には可能ではない事態において、最愛の人の突然の不在によって、存在と無に関する問いが自ずから立ち、しかもそれが何かを知りたい切実な欲求でありながら、それが何であるか全くわからないというのであれば、それは「厳罰感情」とは似ても似つかない哲学的思考だと思います。