犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マツダ本社工場 社員12人死傷事件

2010-06-28 00:32:08 | 時間・生死・人生
 6月22日にマツダ本社工場に乗用車で突入した引寺利明容疑者(42)は、取り調べに素直に応じ、「大変なことをしてしまった」と供述しているそうです。「秋葉原のような事件を起こそうと思った」と語る引寺容疑者は、秋葉原の犠牲者の理不尽な死、遺族の絶望的な人生、そして加藤智大被告の惨めな姿を熟知していたはずです。「大変なことをしてしまった」のは当然のことであり、この言葉を周囲が掘り下げたところで、何も得るものはないと思います。

 秋葉原の事件も、加藤被告本人は罪状認否で罪を認めましたが、弁護側が責任能力を争い、証拠の多くを不同意にしたため、例によって裁判が長引いています。今回の事件は裁判員裁判となるため、法廷の光景は大きく変わるでしょうが、弁護側の争う姿勢が被害者や遺族を苦しめることになるのは同じだと予想されます。
 弁護側にとって、この種の裁判において有効に争い得るのは、責任能力(心神喪失・心神耗弱)の点だけです。そして、この主張が被害者や遺族をさらに絶望に陥れ、死者の生命を軽視するであろうことは、人間であれば簡単にわかります。しかしながら、刑事裁判の既成概念の枠内で仕事をする弁護人にとって、この業界の常識に従わないことは、非常に勇気が要る行動のようです。

 過去には、被害者や遺族の心情に配慮し過ぎた結果、被告人の利益を損なったとして、弁護士会から懲戒処分を受けた弁護士もいました。依頼者に対する義務に背馳するのは、医師の医療過誤と同じく、弁護士の弁護過誤だということです。もちろん、人間の倫理は、その上位概念として、死者の生命の重さに気がつきます。しかし、社会において責任ある仕事に従事し、その対価を得て生活するということは、この先を考えないということです。そして、この先を真剣に考えようとする者は、多くの場合、世間知らずだとして一笑に付されます。
 弁護活動の過程で死者や遺族を冒涜したとしても、弁護士会はその弁護人を懲戒することはありません(光市母子殺害事件で実際にそのような場面がありました)。他方で、被告人の責任能力を争うべき事件で争わないことは、弁護人にとって懲戒処分を受ける危険性があります。ゆえに、自分の身を危険に晒さず、家族を路頭に迷わせたくない弁護士は、この種の事件では必ず責任能力(心神喪失・心神耗弱)を争うことになります。

 殺人犯の精神鑑定というシステムにおいて、多くの人が感じているのが、殺人を犯した後に鑑定をすることの虚しさだと思います。今回の事件にしても、すでに犯行が終わってしまった容疑者の言葉をあれこれと詮索するしかありません。しかしながら、「大変なことをしてしまった」との他人事のような言葉は、事件の前と後では人格が別であると認めなければ正確に説明できないのではないかとも感じます。
 裁判での有罪・無罪を分けるものは、犯行の真っ最中の責任能力の有無です。しかしながら、犯行の真っ最中に医師が精神鑑定をすることはできません(当然です)。そこで、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」という方法が採られることになります。そして、これも不可能です(当然です)。科学の力でなし得るのは、「犯行後に『犯行後の精神状態』を判定する」ことだけであり、犯行当時に時間を戻すことはできないからです。
 
 無差別殺人犯における、溜まりに溜まったマグマが一気に噴出している真っ只中の精神状態は、犯人と他人との間に深淵が開かれているのみならず、過去の犯人と現在の犯人においても隔絶しています。ゆえに、犯人自身であってもその精神状態に迫ることはできません。精神鑑定において導かれる責任能力は、あくまでも「現在の過去」のそれであり、「過去自体」のそれではないからです。
 そして、客観的世界を前提とする科学は、この時間のあり方を全く説明していないように思います。過去に起きた事件というものは、すべて後からそのように考えているだけのことだからです。人間は、この時間性の把握から逃れることが不可能です。客観的世界を実在とみなす錯覚は、「私」がその世界の中にいることが条件となります。そして、殺された人にとっての「私」は、その世界の中にはいません。これは、殺人事件を語る場合にのみ浮き上がる矛盾です。

 過去に起きた殺人事件とは、殺された被害者が見た最後の世界のことです。何が何だか解らないが自分はどうやら今ここで死ななければならない、この思いに「死者の無念」との表題を与えるのは、完全に嘘を語ることです。生きている者の過去の思いですら宇宙から消滅しているのであれば、死者の思いが完全に消滅しているのは当然のことだからです。
 ところが、裁判のシステムは、その殺された被害者が見た最後の世界のことを、犯人の側から語ることを可能とします。犯人についてだけは、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」ことが可能だということです。このようなパラダイムに安住し、犯行当時の責任能力の有無で争うことは、被害者が見た最後の世界に直面することに比べれば、実に気楽な争いではないかと思います。

 法律の条文の定義を離れてみれば、「心神喪失」という単語が正確に示している状態は、被害者遺族の側であると感じられます。私はこれまで、被害者遺族の方々が自分自身の状態を表す言葉として、「外側は人間の形をした人間の抜け殻」「生ける屍」「死ぬに死ねずに生かされている廃人」といった表現に触れ、打ちのめされてきました。そして、まさにこれが「心神喪失」であると感じるとともに、そのような状態にありながら報復もせず、八つ当たりの犯罪にも走らず、自ら命も絶たずに生きるそのことに人間の尊厳が示されているのだと知りました。
 これに対して、社会への恨みでマグマが充満している精神状態をもって「心神喪失」であるとして争うことは、法律的な定義はともかくとして、やはり気楽な争いだという感が拭えません。そして、この場面において人間の尊厳という言葉も使いたくない気がします。