犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

示談交渉の打ち合わせの光景  その1・被害者の事情

2010-06-13 00:58:50 | 言語・論理・構造
 彼女は、弁護士との打ち合わせの際に、まずは加害者側の謝罪文を読みたいと希望した。その文字から最低限の誠意が表れているか、何度も推敲して行間から滲み出てくる苦悩が表れているのか、これを確認しなければ先に進めないと思ったからである。そして、謝罪の意志が込められていない示談金など断じて受け取りたくないと弁護士に伝えた。それ以外に彼女が弁護士を訪れた目的はない。
 しかし、弁護士は、彼女の言っている意味が完全にわからないという顔をした。そして、お金を払うことが誠意なのだと丁寧に説明した。誠意があれば賠償額は高くなり、誠意がなければ賠償額は安くなる。せっかく働いて稼いだお金を、みすみす持って行かれる苦しみに耐えることが、人間の誠意を測る最善の指標である。弁護士の説明は、他に考えようがないだろうという自信に満ちていた。今度は、彼女のほうが、弁護士の言っている意味が完全にわからないという顔をした。

 彼女は、自分が言わんとしているところを粘り強く説明し、あくまで加害者側に手紙を書くよう請求してほしいと訴えた。そして、賠償額については、それを見てから決めたいと言った。しかし、弁護士は、そんなことはできないと答えるのみであった。謝罪の意志が込められていようがいまいが、「賠償金を受け取りたくない」と言うことは、加害者に弱点を晒し、揚げ足を取られる要素を与えることになる。交渉とは、あくまでも強気に、1円でも高い賠償金を吹っかけるものでなければならない。弁護士は、まるで大人が子供に教え諭すように、彼女に解説した。
 彼女が受けた被害の示談金の相場は、過去の判例からすれば、300万円程度である。加害者側の弁護士も、そのことが十分にわかっている。従って、これが200万円で済まされたのであれば、一瞬にして100万円を稼いだに等しい。そうであれば、加害者は、どんな手を使ってでも、感動的な謝罪文を書いて誠意を見せてくる。従って、手書きの謝罪文などに意味はなく、300万円の示談書の条項に「心から謝罪する」との一文を加えることに意味がある。弁護士の強い視線と口調に、彼女は根負けしてしまった。
 一番大事なところを譲ってしまったと彼女は思った。判例の相場、示談の相場が不満なのではない。200万円であろうが300万円であろうが、謝罪の言葉がお金で買われることに譲歩してしまったのである。彼女は、お金を受け取った瞬間に、お金に買われたことになる。

 現在の「年収300万円時代」に300万円を稼ぐのがどれだけ大変なことか、そんなことは誰に言われなくてもわかっている。示談金の300万円を1日で手にしておきながら、お金の問題ではないとの本音を言えば、世間の常識はこれを理解しない。浮世離れしている、生活感がないとの非難を浴びるのみである。弁護士が言うとおり、示談とは、所詮はお金の問題である。しかも、誠意や謝罪を科学的に数値化することはできず、現在の法律が金銭的な負担額の比例によって数値化できるとしているならば、お金以外の解決方法はない。
 「謝罪の意志が込められていない示談金は受け取りたくない」というのは、現にお金に困っている人にとっては、贅沢な悩みである。お金の問題ではないと言っていられるのは、今現在お金に苦労していない人の甘えであると言われてしまえば、彼女は容易に反論することができない。失業したとき、病気になったとき、お金がなければどうするのか。この構造の中で問いと答えが繰り返される限り、どのように答えても、絶対に勝てない仕組みになっている。貨幣経済は相対的なルールであっても、その相対的なルールの土俵の上で戦う限り、その外に出た者は負けであるという仕組みになっている。

 300万円を無事に回収した弁護士の顔は誇らしげであった。当初は「50万円しか払えません」と言っていた加害者を執拗に追及し、何とかかんとか300万円をかき集めさせたのである。彼女の前で、弁護士は悪戦苦闘の交渉の経緯を能弁に説明した。彼女は、弁護士が心からの感謝の念を待ち詫びていることを察して、角が立たないように、感謝の言葉を述べた。彼女は、謝罪の意志はなかなか偽装できないのに対し、感謝の意志は簡単に偽装できるのだと思った。
 お金など1円も欲しくない。元の生活に戻りたい。しかし、世間の常識の中では、そのような本音は大声では言えない。小声でもなかなか言えない。大金をもらって、何がどう不満なのか。お金が欲しくないなら、お金を請求するのは嘘ではないか。被害者はどこまで強欲なのか。このような中傷を浴びないためには、黙ってお金を受け取っておくしかない。もしも弁護士がその繊細な部分を察してくれていれば、彼女は演技で感謝の言葉を述べる必要もなかったであろう。
 この弁護士は何もわかっていない。私が喜んであげないと、この人のプライドが傷つく。そして、これ以上私がこの人に対して言うことは何もない。彼女は、深く頭を下げて弁護士の前を去った。


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フィクションです。