犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『母べえ』

2008-02-17 19:11:24 | その他
反戦映画だと思って見ると混乱する。善悪二元論に基づいて見るとさらに混乱する。「いったいこの映画は何を伝えたかったのか? 家族の絆? いまいちわからない」。ネット上にもこのような意見が多く見られる。右派からは、単純に戦前の軍国主義を批判する反戦映画であり、日教組の稚拙な理論と変わらないとの評価もみられる。左派からは、戦争の悲惨さを訴える映画なのに、反戦のメッセージが足りないとの評価もみられる。全くその通りである。この映画をそのように評論することによって、人間は自ら右派であるところのものにもなり、左派であるところのものにもなるからである。

「小さな家族の中を大きな時代が通り過ぎてゆく」。山田洋次監督のスタンスはいつも明確である。それ以外にはなく、それ以外のことを語ろうとしても、気付いたときには人間はその中にいるしかない。時代はいつも現代であり、それはいつも歴史的な瞬間である。庶民の目線で時代を捉える手法は、脱構築でありつつこの世の唯一の目線である。過去については歴史という何物かを対象化し、あるいは歴史から何物かの教訓を得て、現代に絶対的な基準を置く視点は、名もなき庶民の一言によって蟻の一穴を開けられる。あらゆる歴史上の瞬間は、古今東西の人間の現在の瞬間でしかあり得ないからである。山田監督のこの視点は、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』や『武士の一分』などの映画においても一貫している。

治安維持法違反による逮捕。思想犯の弾圧。特高警察による捜索と取調べ。転向の強要。現在の日本では、このように列挙してみると、どうしても街頭に出て憲法9条を守るための署名活動をするという選択肢に直結してしまう。しかし、この映画の中で逮捕されたドイツ文学者の野上滋氏に言わせれば、おそらくこのような活動は失笑の対象であろう。カントやニーチェ、トルストイの本に細かく書き込みをしている人にとっては、その時代が戦後から戦前に戻ることなどあり得ない。1940年当時には1941年はなく、1945年もなかった。これは、現在が2008年であって2009年ではないことと同じである。この映画から反戦平和のメッセージを読み取ったのであれば、単にそれだけの話である。

ネット上の意見の中には、本筋とは関係ない登場人物が多くまとまりがないとの批判も見られる。これもその通りである。名もなき庶民の目線から語るならば、まとまりが生じるわけがない。権力者は自分に都合の良いように歴史にストーリー化する、従って話はスッキリとまとまる。ところが、それを批判して権力者による歴史の改ざんを非難するならば、その反権力性によって、同じように話はスッキリとまとまってしまう。この構造を壊すには、ちょっとした工夫がいる。この映画でポイントとなっているのは、本筋とは関係ない変わり者の叔父さんの登場とその死である。金儲けしか頭にない下品な悪役として登場したはずが、いつの間にか「ぜいたくは敵だ」の軍国主義へのアンチテーゼになってしまっている。ここは泣くよりも笑うしかない。

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