犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第1章

2007-05-06 19:03:22 | 読書感想文
第1章 愛する妻と娘の仇は自分がとる

近代法治国家においては、被疑者・被告人にも手厚く人権が保障されるのが「当然の常識」であった。そして、被害者側がその前に譲歩することも「当然の常識」のはずであった。しかし、本村洋さんの人生を賭けた言葉は、そのような常識をあっという間に覆した。1人の人間としての本村さんの言葉は、論理的に非の打ち所のないものであり、専門家による机上の空論の脆弱さを暴いてしまった。

多くの国民が本村さんに共感した現象は、安田好弘弁護士からすれば、現代の日本人の人権意識が成熟しておらず、誤解に基づく短絡的な感情だと位置づけられるだろう。しかし、本村さんの言葉を聞いた国民は、憲法に書かれている能書きではなく、自分自身の倫理観に従って、自分の頭で「人権」という言葉を解釈したまでである。個に徹するほど普遍に通じるという人間の逆説が見事に現れた例である。

安田弁護士をはじめとする人権派弁護士は、常に自分は弱い者の味方をしているという絶対的な正義感を持っている。この正義の基準は絶対的であり、弱者が被疑者・被告人であることも絶対的である。そして、そこに設定された弱者の人権擁護の理念からの距離によって、人間の価値を序列化する。弱い者を人権侵害から救済することが社会正義の実現であると断定するならば、その実現を妨げようとする人間は不正義に他ならない。この基準からすれば、本村さんも当然ながら不正義に位置づけられる。

死刑廃止論を唱える人権派弁護士は、その主張を絶対に譲ることがない。もしその主張を譲ってしまえば、死刑廃止の信念に基づいて活動してきたこれまでの自分の人生を否定することになるからである。ここにも人生の一回性と不可逆性、そして有限性と刻一刻性の形式が現れている。安田弁護士にとっては、死刑廃止の実現はライフワークである。しかしながら、ライフワークとは読んで字のごとく、生きている限りの活動である。死に向かって歩む存在である人間は、その実現を焦る。「ライフ」ワークとしての「死」刑廃止運動という文法は、死を語って死を見落とす諧謔である。

安田弁護士は、その一度きりの人生において、生きている間にしか死刑廃止論を唱えることができない。ここに、自分の人生の一回性の自己実現のために、本村弥生さんと夕夏さんの一度きりの人生を利用しているという自己言及のパラドックスがある。安田弁護士は、そのことに気づいていないか、気づかないようにしているものと思われる。

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