犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 15・ 人を殺すとはどのようなことか

2008-04-09 23:37:26 | 実存・心理・宗教
なぜ人を殺してはいけないのか。人を殺すとはどのようなことか。裁判とは、このような哲学的命題を論ずるところではない。しかしながら、罪を犯した者がこのような問いに真摯に向き合わなければならないことは、全く別の問題である。これは、人を殺した経験がある者の特権であると言ってもいい。人を殺したことがない圧倒的多数の者には与えられていない特権である。人を殺した瞬間の感情、殺した後の印象、これは経験がない者においては、どうしても語ることができない。

このような哲学的難問においては、殺意の有無という事実認定にはほとんど意味がない。広い意味で「人間である自分が他者の生命を奪った」という事実には変わりがないからである。殺人罪と傷害致死罪には差がないし、さらには業務上過失致死罪でも哲学的には差がない。むしろ、殺意がないのに人を死なせてしまったほうが、突き詰めれば人間の苦悩は大きくなるほどであり、法律的な罪の重さとは基準が異なる。「人を殺す」の表現は、法律学における定義を離れれば、傷害致死罪や業務上過失致死罪に用いても誤りではない。

犯人に「人を殺した実感がない」ということは、人間としてそれほど不思議なことではない。戦場の兵士は、常に敵を殺さなければ自分が殺されるという状況に置かれている。ついこの前の武士が刀を差していた時代には、斬り合い、辻斬り、仇討ちが日常茶飯事であった。数十年や数百年の違いなど、50億年の地球、500万年の人類の歴史からすれば微々たるものである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは相当な殺人犯であるが、彼らにそのような自意識があれば、今頃は歴史の教科書に載っていない。現在も死刑賛成派が拘置所の職員に死刑の執行を委ねているのは、人を殺すという自責の念に苛まれることなく、粛々と職務を実行することを期待していることを前提としている。

このような時代を経て、人類は戦争の愚かさと平和の尊さを知り、とりあえず生命の尊重という倫理に到達した。そして、人殺しは刑法において禁止され、死刑も廃止するという流れで進んできた。ここで残された最後の問いが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という哲学的な問いである。この問いは、実際に人を殺した者が、「人を殺すとはどのようなことか」と激しく自分自身に問い詰めることにおいて先鋭化する。ここで、人を殺したことの意味がわからないまま、死刑廃止論の恩恵だけを享受して死刑を免れることは、生命尊重の論理において背理である。殺意の認定といった話よりも、こちらのほうが論理的には先に来るからである。

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