犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

交通法科学研究会編 『危険運転致死傷罪の総合的研究』

2008-02-03 20:26:29 | 読書感想文
交通法科学研究会の方々は、とてもよく勉強されている。危険運転致死傷罪は準故意犯として扱われており、故意責任の原則に基づく構成要件の定型化を前提とすれば体系的に位置づけが困難であって、同罪は近代刑法の原則を根底から変える可能性を持つ。従って、同罪の存在それ自体の合理性と科学性を本格的かつ批判的に検討する必要があり、客観的かつ社会学的に考察しなければならない。このようなスタンスに基づき、同書は実証的なデータ収集も抜かりなく、社会学的リスク研究の手法をも取り入れている。しかし、どうしても最後に単純な疑問に引っかかる。「そんなに小難しくどうのこうの言う前に、そもそも飲酒運転やスピードの出しすぎ、信号無視をしなければ済むだけの話じゃないんですか?」。

この研究会の方々は、自分が飲酒運転で捕まったときに備えて理論武装をしているわけではない。また、身内や友人に飲酒運転の常習者がいて、その人のために頭を使っているわけでもない。しかし、事態はむしろ、このような理論武装であったほうがまだ救いようがある。客観的な法のあるべき正義、自由と権利と社会正義の実現のために危険運転致死傷罪に批判を述べているのであれば、最初の飲酒運転の問題がきれいに忘れ去られるからである。そもそもの簡単な話、あまりに当然の話が忘れられる。専門知識の細分化が進みすぎた現代社会の学問の陥穽である。人々が人間としての純粋な良心から行う「飲酒運転撲滅キャンペーン」を高みから見下して嘲笑する専門家モード、これが危険運転致死傷罪の改正をめぐるここ数年の膠着状態を生んでいる。

客観的な法のあるべき正義を追究する専門家は、一般人の疑問を全く相手にしようとしない。近代刑法の基礎の基礎もわかっていない素人の的外れの疑問に答えるのは時間の無駄であり、「せめて刑法の入門書を読んで勉強してから出直して来て下さい」、これで終わりである。被害者が悲しみの中でそんな勉強をする余裕がないと言えば、「だったら黙っていて下さい」で終わりである。この近代実証主義のパラダイムにおいて完全に抜け落ちているのは、端的に「人生」の文法である。素人を素人だと定義付ければ、それによって自分は玄人となる。しかしながら、法律の玄人とは一体何なのか。形而下学である法律学は、この世の大多数を占める素人が法を守り、あるいは法を破るところに初めて成立する。法律と法律学の存在を素人に依存し、その上で素人を黙らせようとするところに、形而下学における必然的な衝突が生じる。専門家だ素人だと分けたところで、両者はいずれも「人生」である点において異ならないからである。

危険運転致死傷罪を批判的に検討している専門家に対して、「先生はそんなに飲酒運転がしたいのですか?」と問えば、「ふざけるな」と怒られる。この怒りは、実は残酷な真実を指し示している。そもそもこの人生という存在の形式において、考えることと生きることは別の何かではあり得ないからである。専門家自身の人生を問う問いは、下らない問いである以上に恐ろしい問いである。専門家に対する失礼な問いでなければ、その専門家が怒る理由はない。客観的な議論を積み重ね、主観性を排除するからこそ、そこで絶対唯一の主観の存在をピンポイントで指摘されれば急所を突かれることになる。問いの問い方自体を問えば、それは必然的に禁句を破る。「先生は危険運転致死傷罪に紙の上で逆らっていますが、現実の生活では法を守り、飲酒運転をしていないのはなぜですか? そこまで法に逆らうのなら、検問をしているところで先生が飲酒運転をすればいいのではありませんか?」。それでは懲戒免職になって、危険運転致死傷罪の研究ができなくなると言うならば、理論と実務の架橋もクソもない。

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