犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土師守著 『淳』

2010-05-03 00:05:17 | 読書感想文
p.101~
 私は喪主として、「淳のお骨」が出てくるのを1人で待ちました。しかし、さすがに「淳のお骨」が出てきた時、その変わり果てた淳を見て、私は声を上げて泣いてしまいました。もう本当にこの世には淳の肉体はなくなってしまったという思いが、私の心を打ちのめしてしまいました。
 その後、私たち家族は、警察の車で家まで送ってもらいました。マンションに着くと、数人のマスコミ関係者が待ち構えており、私たち3人の写真を撮っていきました。私たちは、それぞれお骨や位牌、遺影を持っていたので、顔を隠すこともできませんでした。私たちは、淳のお骨と一緒に家に入りました。淳がどれほど家に帰ってきたかっただろうかと思うと、切なさで胸が張り裂けそうでした。私たちは、淳の遺影に向かって、「お帰りなさい。やっと帰ってこれたね」と、話しかけるのが精一杯でした。

p.135~
 被疑者のA少年が逮捕され、取り調べは進んでいきました。新しい事実が明らかになるにつれて、その犯行の異常さが次々と新聞やテレビ、雑誌などで紹介されていきました。しかし、そこでマスコミを支配していた空気が、変わってきたように思われたのです。私にはA少年に“同情”しはじめたかのように感じられたのです。それはA少年が逮捕された時から心配していたことでした。
 少年はなぜあの犯罪に走ったのか。少年の心の闇を理解しよう。学校教育が、少年をあそこまで追い込んだ。少年を更生させるには、どうしたらいいか。その主張や意見は、問題は少年そのものにあったのではなく、少年を取り巻く学校や社会にあった、というものでした。それはそのまま、少年への「同情」へと流されていきます。「A少年は、歪んだ教育、そして病んだ社会の被害者なのです」。一見、耳に心地よいこの意見は、しかし、私たち被害者にとって耐えられるものではありませんでした。

P.254~ 本村洋氏の解説
 現行少年法が絶対正義であり万能であるわけがない。また、法学者や実務家が常に正しい理解をしているわけでもなく、世論の高まりに対して「正しい理解に基づかない」などと民意を一蹴するのは、司法に携わる方々の怠慢であると私は考えている。
 不幸にして少年事件に捲き込まれた被害者や遺族が、怒り、憎しみ、悲しみ、絶望……そういった言葉では言い表わす事の出来ない情状下で諸々の感情を心の奥底に捩じ込み、社会規範を守り、法を信頼する気持ちを取り戻す為に、少年法を通して「人権とは何か」、「少年の保護更正とは何か」、「罪と罰とは何か」などを懸命に考え、社会に訴える声に聞く耳を持たない人間に司法に携わる資格などない。


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 「少年はなぜあの犯罪に走ったのか」という問いの立て方は、少年を取り巻く学校や社会までを視野に入れる包括的な問いであり、論理的には被害者もその社会の中に含まれます。従って、理屈の上では、その問いを追って行けば被害者が求めている答えも導かれなければなりません。しかし、この問いの立て方は、「なぜ被害者は他でもないその人だったのか」という問いを完全に脱落させ、被害者をさらに苦しめます。しかも、犯罪の原因をさらに奥深く追究し、学校・社会・国家・時代といった全称的な概念を持ち出すほど、その中から被害者は抜け落ちることになります。

 「A少年は病んだ社会の被害者である」という主張は、被害者とは同情票を集めることのできる悲劇のヒーロー・ヒロインの地位にあり、加害者ではなく被害者の側に絶対的な正義があることを前提としているように思われます。悲劇のヒーロー・ヒロインとは、人々の同情の視線を集めて悦に入り、被害者の地位に自ら留まり、心地よく自分に酔う余裕がある者のことです。この意味での被害者は、「被害者意識」「被害妄想」といった言い回しにも表れています。そして、加害者こそ被害者であるという文法の混乱は、本来の加害者に対する被害者の地位を捉えることを困難にしているように感じられます。本来の被害者とは、二度と心の底から笑うこともなく、笑いたくもなく、被害者の地位から抜け出したくても一生這い上がれない地獄であると想像します。

 A少年が社会環境・学校教育・家庭環境によって必然的に犯行に至った因果関係は、評論家・ジャーナリストによって丁寧に分析され、A少年は「病んだ社会の被害者」であることが裏付けられていました。すなわち、A少年にが被害者になったことの必然性が、社会全体の包括的な視点から社会科学的に論証されます。これに対して、土師守さんが我が子の骨を拾わなければならなかったことの因果関係については、社会科学的な論証は不可能でした。A少年が被害者であることについての必然性が立証されればされるほど、土師さんの側には偶然性(運が悪かっただけ)という結論が押し付けられるのみです。このような偶然性は、ある日突然、不特定の人間を本人の選択の余地もなくその立場に投げ込み、しかも未来志向的な希望を厳しく拒むという残酷なものです。

 事件後からかなりの長きにわたり、A少年の年齢である「14歳」や、犯行声明文に書かれていた「透明な存在」をキーワードとして、学識経験者らが激論を戦わせていたように記憶しています。事件の再発防止という将来的な政策論からすれば、土師さんの個人的な苦悩などは学問的興味の対象とならず、A少年の一挙手一投足の分析のほうに有識者が殺到したのもあまりに当然のことでした。あれから13年が経ち、現在の世相とともに当時の激論を振り返ってみると、ほとんどが「議論のための議論」であったように思えて、虚しい気持ちが拭えません。現在の「14歳」は事件の当時には1歳であったという現実に正面から対抗できるのは、その当時11歳であった淳君は13年経っても24歳になっていないという現実だけだと感じます。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-05-03 07:56:00
【哲】0的確定論

『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』

 【0特性】
◇絶対性
『拡がりが無い,』

◇不可分性
『分けられない,』

◇識物性
『存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,』

◇変化性
『物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。』

【0特性】が真理であるならば, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。

【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 拡がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。

△無は有を含む。

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