犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『チェンジリング』

2009-03-02 21:34:52 | その他
母親が仕事から帰宅すると、留守番をしているはずの息子の姿が見えなくなっていた。母親は警察に通報して必死で息子を探したが、息子はなかなか見つからない。5ヶ月後、イリノイ州で息子が発見されたという連絡を受け、母親は天にも昇る気持ちで駅に息子を出迎えに行った。ところが、その子はどう見ても自分の息子ではなかった……。これは、1928年にロサンゼルスで実際にあった話である。これを、現代では考えられない話だと言うことは容易い。また、現代でも考えられる話だと言うことも容易い。ちなみに、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の出版は1921年、ハイデガーの『存在と時間』の出版は1927年である。

後世から見た結果論としては、次のように言える。その当時、ロス市長とロス警察は癒着しており、偽の息子との劇的な対面も警察の演出であった。そして、母親が「この子は息子ではない」「私の息子を探して」「私は息子に会いたいだけだ」と訴えると、警察は組織的にその声を潰しにかかる。「その子はあなたの息子です。頭がおかしくなったのですか」。「あなたは息子がいなかった間の自由な生活に戻りたいだけでしょう。母親としての義務を怠り、州に息子を押しつける気ですか」。「警察を笑いものにしたいのですか。バカも休み休み言いなさい」。ついにロス市とロス警察は、組織的な悪事の隠蔽を図るため、「息子の顔もわからなくなった母親」を精神病院に入れてしまう。これが権力の腐敗による悪事である。

結果論としては、この話は、牧師による警察の腐敗摘発キャンペーンが功を奏し、真実が解明された話だということになる。また、多くの市民の声が集まって、ついに権力の横暴を打倒した話だということになる。しかしながら、それだけでは実話の緊張感は伝わらない。権力とは、言語を支配する力である。そして、言語は実体ではない物事、すなわち抽象的な概念を実体であるかのように感じさせる力がある。ここにおいて、「この子供はあなたの息子である」という言葉を支配する力が、「この子供は私の息子ではない」という言葉を語る力を上回っていれば、「この子供はその母親の息子ではない」という客観的事実には何の意味もない。すなわち、権力を持つ者が語る言葉が、客観的真実というものになる。

嘘も100回繰り返せば本当になり、本当も100回否定されれば嘘になる。しかし、その嘘もすでに100回否定された本当であったのかも知れず、その本当もすでに100回繰り返された嘘であったのかも知れない。これが言語の力である。しかしながら、世の中にはこの法則を超越している言葉もある。「息子に会いたい」。「私の息子を探して」。この言葉だけは一貫しており、ブレようがなかった。この話の主人公の母親は、亡くなるまでずっと息子を探し続けたそうである。その母親の一生を、21世紀の人々が後世の高みから見下ろしてみるとき、「息子の存在すら忘れて自分のために楽しい人生を送りました」という結末が幸福に思えないのは事実である。もしそれが幸福であれば、後世の人々はこのような映画を創ったりしない。

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