犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

逆方向のルサンチマン

2007-03-07 20:16:12 | 実存・心理・宗教
ルサンチマンという怨恨感情の存在は、ニーチェが人間心理の裏側に入り込んで鋭く指摘した事実である。人間は苦しみや辛い状況に直面すると、その心情を屈折させて、自然な倫理に反する理屈によって状況の正当化を図るようになる。

ニーチェ哲学によれば、弱者こそ真の強者であるというキリスト教の思想がその元凶だとされる。汝の敵を愛せよ、右の頬を殴られたら左の頬も差し出せ、第二里を行け、このような厳しい道徳がその典型である。ニーチェの指摘は小難しい理屈ではなく、汝の敵を愛するのは難しい、左の頬まで殴られるのは痛くて嫌だというだけの話である。このような理想的な教義は自己欺瞞的であり、自然に反し、人間の本能に反している。左の頬も叩かれながら、内心で「自分は勝った」とほくそ笑む行動が、ルサンチマンの典型である。弱さを隠すために強がっているが、実際には弱いままであるという指摘である。

啓蒙思想は、このような宗教的な迷信を打ち破ったはずであった。そして、「他人の頬を殴ってはいけない」という道徳の存在を前提としつつ、あえて「反道徳的な暴行罪の被告人も裁判では黙秘権を行使できる」という反道徳的な行動を正当化するのが人権論である。しかしながら、この反道徳は、強大な国家権力という強者を大前提とし、市民の弱者性を前提とする限りで正当化されるものでしかない。そこでは、人間は同じように自分の苦しみの原因を外部に転嫁して状況の正当化を図るようになり、心情を屈折させて怨恨感情を持つようになる。

通常の道徳的なルサンチマンは、弱者がその弱みを隠そうとして、強者を気取る心理である。これに対して人権論では、もともと反道徳的な行動が正当化されており、市民の弱者性を前面に出すことが許される。従って、被疑者や被告人については、通常の道徳的なルサンチマンとは逆に、弱者がその弱みをさらにアピールして、弱者性を気取る心理が表れてくる。密室に拘束されて心身ともに限界であり、取調べが厳しくて耐え切れず、家族のことが心配でたまらないといった弱音を堂々と述べることができる。そこでは、被害者の人生を狂わせてしまったという事実の認識は完全に欠落する。

通常の道徳からルサンチマンが生じるとすれば、反道徳から生じるのは、いわば「逆ルサンチマン」である。道徳は人間の自己中心性を反転させ、自我の欲望を反転させる。そして人権論は、さらにその道徳を反転させる。2度反転させれば、価値基準は当然元に戻ることになる。被告人はこの価値基準に従って、徹底的に自己中心性を発動して、自己弁護をすることができる。しかも弱者の地位が自分の利益につながる。これが逆方向のルサンチマンの発生の動機である。

被告人が自我の欲望を主張することは正当な権利であると言われれば、被害者を無視する方向に流れるのは当然の行動である。人権論の文脈では、そもそもの犯罪は道徳的に非難されず、被告人は国家権力から残酷な刑罰を受ける危険を背負っている弱者であり、被害者のことなど考える義務などないからである。

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