犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その1

2012-05-08 23:26:51 | 読書感想文

 冷泉氏は、「第4章 価値観対立と『目線』」の中で、色々な例を挙げて、加害者の論理と被害者の論理が衝突する構造、すなわち「不等式の違い」を説明しています。そして、この対立構図の説明は、例えば死刑存置問題、戦争責任、歴史認識などにも応用ができると述べています(p.116)。

 以下に、私自身の理解のために、冷泉氏の文章を「犯罪と刑罰」「犯罪被害と厳罰化」「死刑存置と死刑廃止」に読み替えて書いてみます。あくまでも、私が学問の世界で感じていたもどかしさ、実務の世界で感じているもどかしさに補助線を引くためのものであり、冷泉氏の述べる「応用」とは見当違いの方向かも知れないと思います。


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p.105~

 まず、犯罪に対して厳罰を求める被害者の意識はどうだろう。犯罪被害を受けた者は、とにかく現実を受け入れることができないまま、目の前の事態に必死であり、理屈にならない不条理感を抱いているのである。こうした理不尽さは、やがては近隣の人々からの疎外感、誰からも理解されない無力感というような、具体的な二次的被害につながってゆく。

 そこでは2つの「目線」が交錯している。1つは、「加害者=醜い存在」という「見下す目線」である。だが、そこに「加害者=自分の人生を支配する存在」という距離感が加わり、さらに、加害者を擁護して弁護している人々は、「犯罪からの更生の可能性」とか「立ち直りと社会復帰」という「錦の御旗」を立てて威張っている、という見方が加わる。その結果として、「自分は後ろ向きの復讐心に囚われている格下の人間として見下されている」という「上から目線」を感じることになる。こうした二重の被害感、とりわけ「上から目線」で悪玉にされてしまうことの理不尽さが、厳罰の正当性を確固たるものにする。

 一方で、厳罰に反対する弁護人の心理はというと、こちらも激しい被害者意識に囚われているようだ。加害者の刑事弁護をし、連日の接見をすることが仕事なのであれば、加害者に情が移ってくるのは間違いない。これに対して被害者は、「厳罰を受けよ」と、一種の強制力を伴った言い方で強く言ってくる。そうすると、刑事弁護人の視点からは、「被害者>>弁護人」という力関係を感じることになる。これは、「犯罪者のたった1人の味方=犯罪者=弱い存在」という自己イメージと裏返しになる。「誰も味方がいない犯罪者」と、「世論の攻撃に負けずに必死に弁護している自分」が一種の連帯感を持ってくるのである。

 こうした厳罰への強制力を受けているという意識や、加害者への感情移入を通じて、 「犯罪者=刑事弁護人」は「被害者」であり、厳罰を求める被害者やそれに同調する世論は「加害者」だという規定を、厳罰に反対する弁護人は強く意識することになる。その結果として、被害者の態度には「加害者と弁護人を追い詰めようと見下す」姿勢、つまり「上から目線」を感ずるのだ。この「上から目線」には、単に見下されているというだけでなく、加害者に厳罰が迫っているという切迫感、自分の刑事弁護への正義感が否定されたという屈辱も伴っているのだろう。その意識が暴走するのである。

(続きます。)

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