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石屋製菓の「白い恋人」が大売れらしい。新千歳空港の売店では開店前から行列ができ、30分で品切れ状態だそうである。賞味期限の改ざんによる3ヶ月の業務停止明けという話題性、入手困難のレア感、忘年会の景品用としての受け狙いによる買い占めなどが作用したものと言われている。しかし、あれほど大騒ぎした「食の信頼」が、そんなに簡単に回復していいものなのか。国民は偽装に激怒し、もう信用できないと憤慨し、今後は買わないと怒っていたのではなかったのか。今年の漢字は「偽」と決まり、食の安全への信頼が揺らいだ1年という位置づけがなされていたにもかかわらず、これでは「偽」への怒りそのものが「偽」である。石屋製菓は時間をかけて信頼の回復に努めなければならないというシナリオそのものが「偽」であったことになる。これでは、赤福も船場吉兆も信頼回復に努力する必要などなくなる。
会社ぐるみの偽装といっても、会社の建物が偽装をするわけではない。企業の社会的責任といっても、コンクリートの建物が責任を取るわけではない。突き詰めれば、すべては人間の自己顕示欲に還元される。「偽」の根源は人間の自己顕示欲である。企業の「偽」を怒っている国民のほうも、増毛やら美容整形やらをしているというのでは、その怒りは本物ではない。自分の頭や顔が「偽」だからである。増毛や美容整形によって「本当の自分を取り戻したのだ」と主張し、整形手術ではなく「プチ整形」であると言い張るならば、それは自己顕示欲の暴露を恥じ、「偽」を「偽」と知ることによる後ろめたさの表れである。偽装だらけの人間が、他の人間の偽装を正当に激怒できるわけもない。忘年会の景品として「白い恋人」を買ってきた幹事は大人気となる。やはり、今年の漢字「偽」そのものが「偽」である。
p.55~ 抜粋
本当にそうであるのではなくて、そうである「ふりをする」、そういう「見せかけ」でよしとする。なんで本当ではなく見せかけでよしとするかというと、本当の人生をよしとしていないからである。自分の人生を生きていないからである。自分の人生を生きていないとは、裏返し、他人の人生を生きている。他人にどう思われるかということで生きているということである。他人にどう思われるか、他人にどう思わせるかということが、人生にとっての最重要事であると疑ったこともないのである。人生とは、人間とは、他人にどう思われるかということ以外の何ものでもないと。
なるほど人間には、誰も多少は人目を気にするところがある。しかし、現代社会はとくにこの傾向が顕著なのではなかろうか。ざっと見渡してみるだけでも、世の中その手のことばかりである。いや、そういう考え方こそが、人々を動かしている原動力のようにも見える。互いに互いの目を気にし合い、いかに自分をよく見せようか。今さらながら、「装う」とは、「見せかける」ということなのだった。こういう人の人生は、想像しようとしても何も想像できないのである。いかなる表象も浮かんでこない。空しい。何もない。その人というのが存在しない。
会社ぐるみの偽装といっても、会社の建物が偽装をするわけではない。企業の社会的責任といっても、コンクリートの建物が責任を取るわけではない。突き詰めれば、すべては人間の自己顕示欲に還元される。「偽」の根源は人間の自己顕示欲である。企業の「偽」を怒っている国民のほうも、増毛やら美容整形やらをしているというのでは、その怒りは本物ではない。自分の頭や顔が「偽」だからである。増毛や美容整形によって「本当の自分を取り戻したのだ」と主張し、整形手術ではなく「プチ整形」であると言い張るならば、それは自己顕示欲の暴露を恥じ、「偽」を「偽」と知ることによる後ろめたさの表れである。偽装だらけの人間が、他の人間の偽装を正当に激怒できるわけもない。忘年会の景品として「白い恋人」を買ってきた幹事は大人気となる。やはり、今年の漢字「偽」そのものが「偽」である。
p.55~ 抜粋
本当にそうであるのではなくて、そうである「ふりをする」、そういう「見せかけ」でよしとする。なんで本当ではなく見せかけでよしとするかというと、本当の人生をよしとしていないからである。自分の人生を生きていないからである。自分の人生を生きていないとは、裏返し、他人の人生を生きている。他人にどう思われるかということで生きているということである。他人にどう思われるか、他人にどう思わせるかということが、人生にとっての最重要事であると疑ったこともないのである。人生とは、人間とは、他人にどう思われるかということ以外の何ものでもないと。
なるほど人間には、誰も多少は人目を気にするところがある。しかし、現代社会はとくにこの傾向が顕著なのではなかろうか。ざっと見渡してみるだけでも、世の中その手のことばかりである。いや、そういう考え方こそが、人々を動かしている原動力のようにも見える。互いに互いの目を気にし合い、いかに自分をよく見せようか。今さらながら、「装う」とは、「見せかける」ということなのだった。こういう人の人生は、想像しようとしても何も想像できないのである。いかなる表象も浮かんでこない。空しい。何もない。その人というのが存在しない。
ただ何となく「激怒する」姿に、「真」の心象を与えたくないですね。
善を善と知るからこそ偽善を行うことができる。悪を悪と知るからこそ偽悪を行うことができる(少し前に「ちょいワルおやじ」なんてのも流行りました)。
自らが偽装をしていないのであれば、他者の偽装に腹が立つ訳もない。自分独りが善く生きていれば済む話だからである。従って、もし「正当に激怒できた」としたら、それは偽である。
最初と逆になってしまいましたが、これでいかがでしょうか。禅問答の真似事です。
原典は「ハウツー本」についてでしたね。
「他の人間の偽装を正当に激怒できるわけもない」という一文に、考えさせられました。
もし「正当に激怒できた」としたら、それは真なんでしょうか、偽なんでしょうか。