犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員裁判判決、最高裁で破棄 大阪寝屋川女児虐待事件

2014-08-01 22:16:18 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月24日・25日 MSN産経ニュースより

 大阪府寝屋川市で平成22年、当時1歳の三女に暴行を加えて死亡させたとして傷害致死罪に問われ、いずれも検察側求刑(懲役10年)の1.5倍にあたる懲役15年とされた父親の岸本憲(31)と母親の美杏(32)両被告の上告審判決で、最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は24日、裁判員裁判による1審大阪地裁判決を支持した2審大阪高裁を破棄、憲被告に懲役10年、美杏被告に同8年を言い渡した。

 「量刑は直感によって決めれば良いのではない」。女児への傷害致死罪に問われた両親の上告審で、求刑の1.5倍の懲役15年とした裁判員裁判の結論を破棄した7月24日の最高裁判決。裁判長を務めた白木勇裁判官は補足意見で、評議の前提として量刑傾向の意義を裁判員に理解してもらう重要性を指摘し、「直感的」評議を戒めた。裁判員の「求刑超え」判決が増える中、厳罰化への一定の歯止めともなりそうだ。

 「1審の判決は感情的なものだとしか思えなかった。法律家としては見直されて当然だと思う」。判決後、岸本美杏被告の弁護人は、量刑を懲役15年から同8年に減刑した最高裁の判断をこう評価。別の弁護人も「市民感覚が反映されるのは想定の範囲内だが、量刑判断にあたって何の基準もないわけではない」と話した。


***************************************************

 裁判員の責任と言えば、「人を裁くことの重さ」「被告人の人生を左右することの重さ」ばかりが強調されますが、これは法律実務家の鈍った感覚からの結論です。本当の重さは、被告人側のみではありません。この事件に即して言えば、1歳8ヶ月で一生を終えた女の子の人生の意味、その存在の重さがあります。これは、多数の事件の裁判を経て免疫の生じた法律実務家には、職業病として見えなくなってしまう部分です。

 人が社会人として世の中に出て、ひとたび組織の論理に従うようになれば、肩書き・役割・立場・建前といった束縛から自由に思考することは困難です。その意味で、今の時代、分別のある社会人が費用対効果やら予算の制約やらに捕われることなく「命とは何か」「罪とは何か」といった哲学的問題と真摯に向き合うことができる場面は、この裁判員制度がほとんど唯一のものなのではないかとの感を持ちます。

 裁判所がその責任において審査し、候補者の中から選んだ裁判員には、人格や倫理観への信頼が担保されているはずです。そして、この悲惨な事件を前にして、人間の欲望や業、さらには子供は親を選べないという不条理な真実をも含め、裁判員の方々は恐らく人生を賭けて悩み、考えに考え抜いて、求刑の1.5倍という決断を下したものと思います。このような決断は、生半可な覚悟でできるものではありません。

 もちろん、このような裁判員の決断は、従来の裁判のあり方や権威主義への批判を含むものです。しかしながら、このような視点自体が専門家の職業病からの一つの解釈であり、裁判員制度の意義を無にしてしまうものと思います。今回の最高裁判決が結果的に同じものだったとしても、裁判員の判断に「直感的」とのレッテル貼りをする裁判官の補足意見に対しては、最高裁の言葉はこの程度のものかと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。