私は以前、法律事務所(弁護士事務所)の事務員をしていた。その事務所では、交通事故や医療過誤で家族を亡くされた方からの依頼を何件か受けていた。刑事的に立件されなかったり、刑事裁判の判決があまりに軽かったりして、納得できない家族が民事裁判を起こすためである。どの事件も、弁護士が原告である家族の訴訟代理人に就き、地方裁判所で損害賠償請求権の民事裁判を進めていた。しかし、このような事件は例によって進行が遅く、被告側からの答弁書や準備書面でますます傷ついたり、裁判所の心証も芳しくなかったりで、なかなか思うように行っていなかった。これは、日本の平均的な民事裁判の光景である。
原告である家族は、交通事故や医療過誤で家族を亡くされてからは生活が一変し、なかなか心を割って話ができる相手に恵まれていなかった。そこで、たびたび事務所に電話がかかってきたが、事件の進行状況の説明という名目がいつの間にか10分、20分と話が長くなり、忙しい弁護士はイライラするのが常であった。そして、多くの場合、弁護士は原告である家族からの電話や事務所訪問を嫌がっていた。そんな中で、その方面の仕事が、いつの間にか事務員である私に回るようになっていた。私が電話で話を聞いたり、事務所で直接話を聞いたりすると、なぜか納得されることが多く、適材適所の役割分担ができていたからである。もちろん、弁護士法72条の非弁行為に抵触しないよう、その都度弁護士からの指示を受けていた。
ある日、交通事故で息子さんを亡くされた母親が、事務所に期日の打ち合わせにやってきた。バイクで走っていて車にはねられ、数日後に死亡した事故である。バイクと車の過失相殺が焦点であったが、裁判の行方は大体見えており、裁判所からの和解勧告もあり、賠償額もほぼ決まりかかっていた。しかし、その母親はいつ事務所に来ても心の底から納得して帰ることはなく、弁護士としても苦しいところであった。これ以上の増額は無理であるとの説明を尽くしても、なかなか理解してもらえず、弁護士と家族の気持ちはすれ違いつつあった。信頼関係が完全に崩れれば、辞任ということにもなりかねない。そこでその日は、弁護士からの委任を受けて、私がその母親の話を聞くことになった。
裁判の大きな争点は、バイクと車の過失相殺であった。車の運転手は、死人に口なしと言わんばかりに、バイクの大幅な制限速度違反を主張していた。母親は私に向かって、必死に力説した。「うちの息子のバイクのスピードは……」。「うちの息子は普段から慎重な性格で……」。どれもこれも、すでに弁護士が詳しく聞いていた話ばかりである。この言葉を法律の専門家として聞いてしまえば、すべては法律的な評価として過失相殺の条文に変換され、同じことの繰り返しである。これ以上の増額は望めない、納得してくれ、いや納得できないとの言い合いである。現に、弁護士においては、要領を得ない感情的な家族であるとの印象が生じており、家族においては、何を言っても伝わらなくてもどかしいとの印象が生じていたようである。しかし私はその日、母親の別の言葉が強烈に引っかかった。「うちの息子」という言葉である。
息子さんは、すでに亡くなっている。しかし、なぜか「うちの息子」という言葉が、文法上正しいものとして成立している。これは比喩ではなく、文法的に正しい。誰もこれを否定することはできない。そして私は、亡くなった方について、「うちの息子」と言えてしまうことが不思議であった。その母親がではない。一般的な文法がである。そして、母親は、自分の息子の無念を晴らそうとしているのではない。全国に交通安全を訴えたいというわけでもない。あえて言えば、事故の真実を知りたいということであるが、それも知れば知るほど苦しいことであり、それも全てではない。私に強烈に突き刺さったのは、述語のほうではなく、主語のほうであった。「うちの息子が……」。「うちの息子は……」。息子さんは亡くなっていない。文法上、亡くなることができない。生きているから苦しい。だから、裁判で闘わなければならない。
私も、それに合わせて話を進めた。「○○さんのバイクのスピードは……」。「○○さんは普段から慎重な性格で……」。確かに息子さんは生きていた。私の中でも息子さんは生きていた。母親の前で、「○○さん」と呼ぶことができるからである。そして私は、その女性を当然のように「○○さんの母親」だと思っている自分に気がついた。○○さんは一人息子であり、もはや彼女は、法律的には母親と呼べる地位にはいなかった。しかし、その女性は紛れもなく、その時点で母親であった。「亡くなった息子さん」と過去形で言えるのは、現在があるからである。すなわち、過去形を使うことによって、翻って現在が証明されている。現在が過去を存在させているならば、すべては現在ではないか。過去に亡くなった息子さんも現在に存在するしかなく、その女性も現在において母親であるしかない。現に自分は、「○○さんのお母さん」と呼んでいたではないか。
涙が止まらなかった。母親も泣いていた。その日を境に、事務所との信頼関係は戻り、無事に和解までこぎつけることができた。母親は私ばかりにお礼を言うので、あとで弁護士から「事務員として出すぎである」とこっぴどく怒られたが、これはご愛嬌である。大前提として、数字に強い弁護士が赤本で淡々と逸失利益の計算をしたり、自動車工学の専門家の無機質な数字だらけの本と格闘しなければ、交通事故の裁判はできない。しかし、それだけでは原告が裁判を起こす意味がないばかりか、賠償金が多い少ないの議論だけとなり、かえって苦しみとなってしまう。私は、母親が流した涙について、心のケアや癒しといったありきたりの言葉で説明されることを拒む。言葉にならない何かは、言葉にすることができないからである。
(プライバシーの侵害と守秘違反にならないよう、若干の脚色を入れました)
原告である家族は、交通事故や医療過誤で家族を亡くされてからは生活が一変し、なかなか心を割って話ができる相手に恵まれていなかった。そこで、たびたび事務所に電話がかかってきたが、事件の進行状況の説明という名目がいつの間にか10分、20分と話が長くなり、忙しい弁護士はイライラするのが常であった。そして、多くの場合、弁護士は原告である家族からの電話や事務所訪問を嫌がっていた。そんな中で、その方面の仕事が、いつの間にか事務員である私に回るようになっていた。私が電話で話を聞いたり、事務所で直接話を聞いたりすると、なぜか納得されることが多く、適材適所の役割分担ができていたからである。もちろん、弁護士法72条の非弁行為に抵触しないよう、その都度弁護士からの指示を受けていた。
ある日、交通事故で息子さんを亡くされた母親が、事務所に期日の打ち合わせにやってきた。バイクで走っていて車にはねられ、数日後に死亡した事故である。バイクと車の過失相殺が焦点であったが、裁判の行方は大体見えており、裁判所からの和解勧告もあり、賠償額もほぼ決まりかかっていた。しかし、その母親はいつ事務所に来ても心の底から納得して帰ることはなく、弁護士としても苦しいところであった。これ以上の増額は無理であるとの説明を尽くしても、なかなか理解してもらえず、弁護士と家族の気持ちはすれ違いつつあった。信頼関係が完全に崩れれば、辞任ということにもなりかねない。そこでその日は、弁護士からの委任を受けて、私がその母親の話を聞くことになった。
裁判の大きな争点は、バイクと車の過失相殺であった。車の運転手は、死人に口なしと言わんばかりに、バイクの大幅な制限速度違反を主張していた。母親は私に向かって、必死に力説した。「うちの息子のバイクのスピードは……」。「うちの息子は普段から慎重な性格で……」。どれもこれも、すでに弁護士が詳しく聞いていた話ばかりである。この言葉を法律の専門家として聞いてしまえば、すべては法律的な評価として過失相殺の条文に変換され、同じことの繰り返しである。これ以上の増額は望めない、納得してくれ、いや納得できないとの言い合いである。現に、弁護士においては、要領を得ない感情的な家族であるとの印象が生じており、家族においては、何を言っても伝わらなくてもどかしいとの印象が生じていたようである。しかし私はその日、母親の別の言葉が強烈に引っかかった。「うちの息子」という言葉である。
息子さんは、すでに亡くなっている。しかし、なぜか「うちの息子」という言葉が、文法上正しいものとして成立している。これは比喩ではなく、文法的に正しい。誰もこれを否定することはできない。そして私は、亡くなった方について、「うちの息子」と言えてしまうことが不思議であった。その母親がではない。一般的な文法がである。そして、母親は、自分の息子の無念を晴らそうとしているのではない。全国に交通安全を訴えたいというわけでもない。あえて言えば、事故の真実を知りたいということであるが、それも知れば知るほど苦しいことであり、それも全てではない。私に強烈に突き刺さったのは、述語のほうではなく、主語のほうであった。「うちの息子が……」。「うちの息子は……」。息子さんは亡くなっていない。文法上、亡くなることができない。生きているから苦しい。だから、裁判で闘わなければならない。
私も、それに合わせて話を進めた。「○○さんのバイクのスピードは……」。「○○さんは普段から慎重な性格で……」。確かに息子さんは生きていた。私の中でも息子さんは生きていた。母親の前で、「○○さん」と呼ぶことができるからである。そして私は、その女性を当然のように「○○さんの母親」だと思っている自分に気がついた。○○さんは一人息子であり、もはや彼女は、法律的には母親と呼べる地位にはいなかった。しかし、その女性は紛れもなく、その時点で母親であった。「亡くなった息子さん」と過去形で言えるのは、現在があるからである。すなわち、過去形を使うことによって、翻って現在が証明されている。現在が過去を存在させているならば、すべては現在ではないか。過去に亡くなった息子さんも現在に存在するしかなく、その女性も現在において母親であるしかない。現に自分は、「○○さんのお母さん」と呼んでいたではないか。
涙が止まらなかった。母親も泣いていた。その日を境に、事務所との信頼関係は戻り、無事に和解までこぎつけることができた。母親は私ばかりにお礼を言うので、あとで弁護士から「事務員として出すぎである」とこっぴどく怒られたが、これはご愛嬌である。大前提として、数字に強い弁護士が赤本で淡々と逸失利益の計算をしたり、自動車工学の専門家の無機質な数字だらけの本と格闘しなければ、交通事故の裁判はできない。しかし、それだけでは原告が裁判を起こす意味がないばかりか、賠償金が多い少ないの議論だけとなり、かえって苦しみとなってしまう。私は、母親が流した涙について、心のケアや癒しといったありきたりの言葉で説明されることを拒む。言葉にならない何かは、言葉にすることができないからである。
(プライバシーの侵害と守秘違反にならないよう、若干の脚色を入れました)
心のケアをするのは義務ではないですからね・・やっぱり。
この記事を読んで気がついたことが二つあります。
ひとつは「うちの息子」として母親が過去計にできないからこそ現在形でよぶ事に不思議さを感じたとことです。私はこれを読んで、「そうか、普通の人はそう思うんだな・・」と改めて気がつきましたよ。
それが悪いといかいいとかじゃなくて、「そう思うんだ」と正直びっくりするというかそういう感じです。
やっぱり、周りの人からみると「亡くなった息子さん」でしかないのですよね。やっぱり。そうですよね。某y.ikeさんのように相手を理解しようとする方でさえ、普通はそう思うのだから、モット違う人は
もっと最初の時点でそう思うんだな・・と改めて
しみじみ思えました。
二つ目は、今私がお願いしている弁護士はとても
依頼者の気持ちにそってくれているほうなのだなと
思えたことです。比較対象がないのでわからかったのとそれが当たり前だと思っていたのですが
結構そうじゃないってことですよね。最近気がついたのですが、わが弁護士はあまりにも依頼者側に立ちすぎてしまって、客観的に裁判を勝つために
見えなくなってしまっている部分が怖いので新しく客観的にみてもらえる弁護士をメンバーに加えて、
「あなた(新しい弁護士)にはあまり依頼者にいれこみすぎないで、冷静にみてほしい」といっていたのを
思い出したのです。弁護士さんも大変だから、
依頼者にいれこみすぎてもだめだから(たくさんいるからひとつに入れ込みすぎたら、パンクする)仕方ないと思います。
人間を合理的・理性的な存在として捉える近代市民社会では、死者に人権はないため、どうしても「うちの息子」ではなく「亡くなった息子さん」になってしまうようです。殺された被害者が全く眼中にない死刑廃止論や、心のケアで被害感情を抑えようとする理論などが、まだまだ法曹界では強いようです。