犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「謝罪文銀行」では意味がない

2009-03-15 21:45:06 | 実存・心理・宗教
兵庫県弁護士会では、今年の4月から、刑事事件の被告人と犯罪被害者との「対話センター」を開設するとのことである。そして、被害者が被告人からの謝罪文を受け取ってくれない場合に備えて、「謝罪文銀行」と銘打って、謝罪文を預かる取り組みも始めるそうである。ここでは、全国の被告人に対しても広く門戸を開き、全国から謝罪文が集まることが予定されている。被告人にとってこのような機関が必要なのは、反省の意思が示されているか否かは刑の量定にとって重大な判断要素だからである。特に、死刑か無期懲役か、執行猶予か実刑かというギリギリのところでは、被告人が謝罪文1つを受け取ってもらったか否かで、その後の判決が大きく変わる。ゆえに、被告人にとっては、「謝罪文銀行」に謝罪文を託したことを裁判所にアピールすることはこの上ない防御活動となる。誠意を持って被害者に謝罪しているのに、頑なに謝罪文を受け取らず、意固地になって誠意を受け取ろうとしないのは被害者側であるという実績が作れるからである。

このような「謝罪文銀行」は、示談金や謝罪金の供託の発想に基づいている。供託とは、債務者が金銭等の受領を債権者に拒否されたときに、その金額を供託所(法務局)に預けるというシステムである。刑事事件に際しても、被害者が示談金や謝罪金を受け取りたくない旨の意思を示しているときに、加害者側が起訴猶予や執行猶予を求めて利用することが多い。これは検察庁や裁判所に対する大きなアピールとなる。供託金とは、債務者がやるべきことは全てやったという何よりの証拠であり、債務不履行を逃れるという法的効果を生じる。債務者はすでにボールを投げたのであって、あとは債権者の責任である。債権者のほうが頑固に心を閉ざして協力的でなければ、事態はそれ以上何も動かないという法的な構造が生じる。これは債権者にとっては暴力であり、無言のプレッシャーである。供託とは、単なる金銭のプラスマイナスを超えた駆け引きであり、心理戦である。今回の「謝罪文銀行」も、その構造は同じである。被告人が謝罪文を第三者に預けることは、逃げであると同時に暴力であり、それを受け取りたくない被害者を激しく苦しめる。

犯罪に伴う謝罪の意思の表明は、このような機関によって簡単に代替できるようなものではない。被告人にとっては、被害者に追い返されても何回も押しかけることが誠意を表すことになり、あるいは嫌がらせや脅しにもなる。ここには一般的なルールなどなく、マニュアル化することなどできない。被告人にとっても被害者にとっても一度きりの人生である。しかしながら、「謝罪文銀行」に頼ってしまえば、この判断自体から簡単に逃れられてしまう。被害者遺族が被告人からの手紙を読みたくないのは、単に心を閉ざしているという表現が恥ずかしくなるほど、複雑で繊細な感情に基づくものである。すなわち、一方では被告人のあまりに軽薄な表面的な謝罪文によって更に悲しみを深くすることが恐ろしい。他方では、被告人が心から謝罪をしていることが伝わってしまえば、被告人を憎み続けることに自己嫌悪を生じる。被害者は感情的に怒ることもできず、善人を演じるプレッシャーに襲われて、加害者を赦さざるを得なくなる。その後に襲ってくるのは、犯罪被害の意味の絶対的な喪失に対する恐怖と絶望である。被害者遺族にとっては、赦しは死者への裏切りである。すなわち、生きるはずだった命が生きられないことの正当化であり、生きたかったという思いを死者の命の代わりに持ち続けることを奪われることである。

被告人と被害者との対話は、建前だけの表面的な挨拶で終わるならば無意味であり、双方の激情の衝突が起きるならば有害である。被害者は被告人に対して持ち続ける疑問は、世の中の綺麗事とは一線を画している。それは、「なぜお前のような人間が生まれてきたのか」「なぜその日まで生きてきたのか」「事件を起こす前に自分で勝手に事故でも起こして死んでくれていればどんなに良かったことか」といった、公式の場では大声では言えないような疑問である。しかし、被害者がこのような疑問を持たざるを得ないのは、すべて被告人側の責任であって、被害者の責任ではない。従って、被告人における謝罪文は、これらの疑問に対する精一杯の回答でなければならない。自らはこれらの疑問に対して限界まで迫れるのか、迫れていないならばその理由自体を突き詰められるか、このレベルに至って初めて謝罪文は意味を持つ。そして、謝罪文を書くことが自分満足ではないことを知る者は、その受け取りを被害者に強制する意思など起きようがない。なぜならば、謝罪とは単に謝ることそのものであって、自分の刑期を短くしたいという意思が少しでも混入する限り、それは謝罪の名に値しないからである。これは、被告人や被害者という立場を超えた人間存在の倫理である。

心底から反省と謝罪の意思を持つ者は、自らに軽い刑を望むのではなく、重い刑を望むはずである。そのような者は、謝罪文を書いた上で、それを被害者に投函することなく捨てているはずである。そして、謝罪文など書かなかったふりをして、裁判所からは「反省の意思を全く示していない」として重い刑を受けているはずである。反省や謝罪といった概念を突き詰める限り、論理の筋としてはどうしてもこのようになる。その意味では、謝罪文という形式には必然的に偽善を伴うことになり、偽善を偽善と知る者のみが正当に謝罪文を書くことができる。今回の「謝罪文銀行」の試みは、これと正反対である。金融機関である「銀行」の名を用いたことも、犯罪被害の本質を捉えているとは言い難い。謝罪文を書いても受け取ってもらえないことは、あまりに当たり前のことであり、その程度のことは最初の犯罪から比べれば軽微な問題である。被告人の誠意が伝わるか否かは、単なる一言一句ではなく文面全体から滲み出てくるものによって示され、さらにはその謝罪文の提出の方法によって端的に示される。金銭トラブルで「誠意を見せろ」と言われた債務者は、単に債権者の前で全額耳を揃えて札束を積めばよい。そして、全額が用意できないときには、一部だけを供託することによって、債務者は誠意を見せることができる。被告人が全人格を賭けるべき謝罪文は、「謝罪文銀行」の前では、もはや個性がなく互換性のある金銭と同じである。

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4 コメント

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Unknown (DH)
2009-03-17 18:42:56
こんばんは。

「謝罪文銀行」とは何とも安直なと言うか、あまりセンスの感じられない命名ですね。名称自体が被害者(遺族)にとっては不愉快に感じられるような気がします。
「対話センター」って所謂「修復的司法」的な理念に基づくものなんでしょうか。比較的軽微な犯罪については「対話」が成立する可能性もなくはないでしょうが、殺人等の重大犯罪に関して第三者の勝手な「理想(妄想)」に基づいて「対話」を強制するようなことには慎重であるべきだと思います。理想的な被害者像や加害者像を設定して、現実の被害者や加害者に無理矢理当てはめようとしても、望ましい結果が得られるとは限らないでしょうし、むしろ逆効果になることもあるのではないかと思います。

仮に被害者の立場に立つとすれば、「謝罪受け入れ拒否文銀行(?)」も作ってもらいたいところですね(苦笑)
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Unknown (某Y.ike)
2009-03-17 21:41:30
DHさん、ありがとうございます。このようなコメントを頂くと、一生懸命考えて書いて良かったと思わされます。
そうですね。「対話センター」は「修復的司法」的な理念に基づくものだと思います。刑事裁判の法廷に被害者を参加させないという結論からすべて逆算されているので、理由付けは苦しいと思います。民事のADRからヒントを得ているのでしょうか。
「謝罪受け入れ拒否文銀行」はいいですね。裁判員には両方を読んでもらって、公平な判断をしてほしいところです。
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Unknown (s.takahashi)
2011-02-03 12:24:51
いま頃で失礼します。
で、この謝罪文銀行はその後どれくらい利用されているのか知りたくなりました。
兵庫県弁護士会の先生に聞いて見ようかな??
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s.takahashi様 (某Y.ike)
2011-02-21 01:28:00
大変遅くなり、すみません。

兵庫県弁護士会 犯罪被害者・加害者対話センターのホームページを見てみましたが、細々と(笑)やっている感じですね。検索をしてみても、他の弁護士会に広がっている感じはありません。

恐らく、刑事弁護における弁護人のゴールは「少しでも軽い刑を獲得する」ことですから、その目的から逆算して、使い勝手がよくないのではないかと思います。
弁護人が被告人に求めることは、正確に言えば、「反省する」ことではなくて、「反省しているところを見せる」ことです。
そのためには、「こちら側が誠意を見せているのに相手が頑なで心を開かない」と言わんばかりの態度を見せるのはマイナスになるわけで、謝罪文を受け取らないならば引き下がるというのが、「反省しているところを見せる」ことにつながるという価値判断が働いているように思います。
私の勝手な想像です。
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