犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

名古屋市千種区・闇サイト殺人事件 あす判決

2009-03-17 21:44:15 | 言語・論理・構造
名古屋市千種区で一昨年8月、会社員・磯谷利恵さん(当時31歳)が拉致・殺害された事件で、強盗殺人などの罪に問われた神田司被告(38)ら3人の判決が明日、名古屋地裁である。検察側は被告人3人全員に死刑を求刑する一方、弁護側は死刑回避を求めて激しく争っている。刑事裁判とは、客観的な事実を証拠によって認定するシステムであり、この裁判においても法廷で詳細な犯罪事実が争われてきた。この「客観的事実」というものを前提にするならば、判決が死刑か否かは、すでに判決言い渡しのかなり前に決まっている。判決の内容に関する唯一の客観的事実が成立した瞬間を想定するならば、それは裁判官の合議においてその結論が一致した時点に求められる。ところが、マスコミを初めとする国民が明日の判決に注目しているのは、この「客観的事実」なるものが判らないからである。この単純な現実を見てもわかるように、裁判は科学的真実を解明する場ではなく、閉ざされた言語ゲームのルールの中で白黒を争う場に過ぎない。裁判に感情を持ち込んではならず、客観的な証拠で事実を確定しなければならないとの主張は、この点において行き詰まりがある。

今回の裁判では、「被害者が1人の事件で死刑が適用されるか否か」が焦点とされてきた。そして、従来の「永山基準」からすれば、検察側の死刑求刑は異例のことであるとの評論がなされてきた。考えてみるならば、死刑が問題になるたびに議論の場に引っ張り出される永山事件の被害者は、二度どころか無数に殺されている。永山事件に限らず、裁判で論点になっている過去の判例の中の被害者は、「死者に人権はない」との法律論の中では何の問題もないが、そこを一歩出れば死者の人生に対する冒涜にさらされている。過去の判例にサンプルとして登場する被害者とは、もっと生きたかった命であり、現にもっと生きられた命であり、死にたくなかった命のことである。弁護側は死刑回避の理由として、被害者が1人であることを強調した上で、「服役経験がなく判例を見ても死刑事案ではない」などと訴えている。しかしながら、この「死刑事案であるか否か」という問題の設定における人間は、生前の死者も含めて、血の通った人間ではない。「3人殺さないと死刑にならない」というのが量刑相場であるならば、死刑を望む遺族は被告人に対して、「他の場所でもっと沢山の人を殺していて欲しかった」と願わずにはいられなくなる。近代刑法の純粋な論理は、この残酷な副作用を完全に無視してきた。

従来の量刑相場で硬直している視点に立てば、なぜ被害者が1人だけなのに死刑になるのか、という形でしか問題が生じない。他方で、被害者の視点に立てば、コペルニクス的転回が起きる。すなわち、1人で3人を殺害するよりも、3人で1人を殺害するほうがより残酷である。抽象名詞はすべて言語による構築物である以上、視点の複数性は、主語の複数性に拠っている。加害者を主語にすれば、「彼は他の共犯者2人と共に、彼女の頭部をハンマーで数十回殴った上で、顔面に粘着テープを数十回巻き付けて窒息死させた」という事実が過去に起きたことになる。これに対して被害者を主語にすれば、「彼女は3人の犯人から頭をハンマーで数十回殴られた上で、顔に粘着テープを数十回巻き付けられて、息ができなくなってしまった」という事実が過去に起きたことになる。言語は構造を作り、錯覚を作る。「殺した」のか「殺された」のか、同じはずの事実が全く異なった様相を見せる。近代刑法の論理が何よりも恐れているのは、この被害者を主語にした文章であって、この視点の複数性によって演繹的な構造が崩れることである。ゆえに、我が国の刑事裁判は長らく被害者の参加を認めず、今回の裁判でも「被害者が1人の事件で死刑が適用されるか否か」を焦点としてきた。このような問題設定が、犯罪被害の本質に切り込んでないことは明らかである。

この裁判では3人の被告人が相互に罪をなすり付け合い、現場で何を言ったか、何をしたかといった事実が細かく問題とされてきた。このように証拠や証言で認定しなければならないものは、厳密には客観的事実とは言い難い。動かぬ過去の客観的事実とは、被害者の人生が一度きりであったことであり、死にたくなかったことであり、もっと生きられたことである。そして、1人から攻撃されて反撃しながら「自分は殺されるかも知れない」と思った時の絶望よりも、3人から攻撃されて反撃もできずに「自分は殺されてしまうのだ」と思った時の絶望のほうが遥かに大きいということである。被害者が頭をハンマーで殴られている瞬間の苦痛、口を粘着テープで塞がれて息ができない状態を想像すれば、人は胸が張り裂けそうになる。これに対して、事実認定の手法によって被告人を主語とする文章に慣れきってしまえば、この胸が張り裂けそうな状態というのがどのようなものなのか、人はそれを想像する能力を失ってしまう。弁護側の「被告人らには服役経験がなく判例を見ても死刑事案ではない」といった主張も、この能力を失った人でなければ、なかなか自分の心が苦しくて言えない種類のものである。

この裁判においては、被告人らに死刑を求める陳情書の署名が、31万9153名にも達している(3月13日現在)。死刑も紛れもない人の死であって、「人の生命が重いからこそ死によって償わなければならない罪がある」という逆説を経る限り、積極的に死刑を望む者は少ないはずである。そのような逡巡を経た中で、最後に死刑という結論に傾いたのであれば、この生命倫理の指し示す方向性は強固である。死者の遺族でなくても、人はこのような形で命を終えた人の一生に対して、心底からの敬意を持つ。そして、我々が生きている今日という日は、その殺された人が生きるはずであった日であり、生きたいと痛切に望んでいた日であることを心底より知っている。そのような地点からは、主義主張として厳罰や死刑が求められるのではなく、自ずから論理の筋が示されてくる。この論理の筋は 赦しの方向に傾くのか、それとも償いの方向に傾くのか。これは、考えの浅い者が感情的に厳罰や死刑を望むこととは全く異なる。32万にも達する署名の中には、いわゆる「ネットウヨ」による感情論もかなり混じっていると思われる。しかしながら、多くの署名者は、自らの倫理観を厳しく問い詰めて、この裁判は死刑しかないとの結論に至ったはずである。人間はそれほどバカではない。

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2 コメント

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判決が出ましたね (豆象屋)
2009-03-18 16:26:29
本日の判決、3名中2名の死刑判決が出ましたね。
(昼に会社で工場の拡声器から流れるラジオにて聞きました)
従来からの流れの大きな変換であり、今後の裁判制度上でも、日本人の裁判に対する接し方の面でも、大きな変化になりそうですね。
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こんばんは。 (某Y.ike)
2009-03-18 23:52:24
豆象屋さん、ありがとうございます。
予想通り、マスコミでは「死刑と無期懲役の境界線をいかに判断すべきか、裁判員制度を前にして課題が浮き彫りになった」というまとめ方が多いですね。
こういう難しいことは偉い人に考えてもらって、私はもう少し簡単なことを考えようと思います。
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