犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある裁判員の苦悩

2009-08-03 00:00:13 | 実存・心理・宗教
裁判員は、残酷な遺体写真の傷や、血の付いた凶器などを目の前にして、精神的ショックを受ける可能性がある。従って、カウンセラーによるアフターケアが非常に大切である。彼は、このような報道を聞きながら、自分にはカウンセリングの必要など全くないだろうと思っていた。残酷な遺体写真や、血の付いた凶器ならば、テレビや映画で数え切れないほど目にしており、彼の予想を超えるものは何もないからである。彼は、裁判員候補者に選ばれたときから、それなりの覚悟はできていた。そもそも、殺人罪を犯した被告人の罪を裁くのであれば、被告人の殺意を証拠によって認定すべきことは当然である。また、遺体に傷ができていく過程も正確に捉える必要があり、決して目を背けてはならない。そして、彼の冷静沈着な姿勢は、実際に彼が裁判員に選ばれ、法廷に座ってからも変わることがなかった。被害者の女性は、胸や背中をナイフで数ヶ所刺されて殺されていた。公判は、人定質問から起訴状朗読、黙秘権の告知から罪状認否、検察官の冒頭陳述へと淡々と進んでいった。

検察官による証拠調べが始まった。そして、甲2号証として検視調書、甲3号証として死体検案書、甲4号証~6号証として写真撮影報告書が、それぞれ検察官から提出された。彼は、このように無機質な表題を付けられたことによって、これは「残酷な死体写真」ではなくなったのだと思った。刑事裁判にとって、死体写真が残酷でなければならない決まりはない。そもそも、自分は何をするためでもなく、被告人の刑の重さを決めるためにここにいる。そして彼は、特に躊躇することもなく、むしろ何がどう写っているのかという好奇心を抑えることができない心理状態で、目の前のモニターに集中した。予想通り、モニターの画面は次々と遺体の状況を映し出していった。刺し傷は胸や背中に何ヶ所もあり、血が流れたまま固まっていた。彼は、驚くほど自分が冷静であることに気が付いた。このまま裁判所から会社に直行しても、すぐに仕事ができるだろう。この裁判から特に得る教訓もない。守秘義務などと言われても、特に話したいこともない。彼は、モニターに映し出された遺体写真を見ながら、やや拍子抜けした状態でいた。しかし、彼女の顔の写真が大きく画面に現れた瞬間、彼は全身が浮き上がったような感覚を覚えた。

彼女は、今にも起き出しそうな苦しそうな顔のまま眠っていた。彼は瞬間的に「しまった」と思った。彼女の体の傷が悲惨なのではない、彼女の顔が悲惨なのだ。遺体写真が残酷なのではない、「死にたくない」と叫んでいる顔の表情が残酷なのだ。彼は、彼女の「死にたくない」という叫びを聞いたわけではなかった。そのような声が聞こえたのなら、それはお節介というものである。殺される瞬間の絶望は、殺された人にしか語れない。そして、殺された人は語ることができないのであれば、その声が生きている者に聞こえることはあり得ない。その意味で、彼の中において彼女が「死にたくない」と叫んでいるように思われたのではなく、彼女は実際に「死にたくない」と叫んでいた。彼には、このような表現が最も正確であると思われた。「死にたくない」という人間の意志は、物理的に写真に写すことはできない。そうだとすれば、人間にできる極限的な行為は、殺された人の顔を写真に撮ることだけである。それは、写真が甲4号証であろうが甲5号証であろうが、「死にたくない」という意志そのものである。彼女の顔は、苦痛に歪んだまま止まっていた。そこでは、生死という存在の形式において、時間が永遠に止まっていた。すでに彼女が火葬されていたとしても、それは何の救いにもならない。彼女の安らかではない顔を見て、彼が安らかに眠ることを願っても、恐らくその善意は逆効果しかもたらさなかった。

検察官の証拠調べが終わり、被告・弁護側の冒頭陳述と証拠調べが始まった。「計画的ではなく偶発的な犯行です」。「反省しています」。「申し訳ありません」。「二度としません」。「寛大な刑をお願いします」。判で押したような軽薄な陳述が続いた。彼にとっては、この軽薄さが救いだった。人は、答えの出ない絶望を直視し続けることにはなかなか耐えられない。罪の重さを認識せず、軽薄な反省の弁を繰り返す被告人に対して呆れ返ることは、出口のない絶望から逃れる一つの道である。検察側の立証から弁護側の立証へ。検察官の論告求刑から弁護人の最終意見へ。この裁判のシステムの順番には、犯罪被害の絶望を直視することができない人間の知恵が表れているのかも知れないと思った。彼は、被告人を擁護する弁護人の弁論を聞き続けているうちに、徐々に奇妙な感覚に襲われてきた。この凶悪犯人には更生の余地がないと思いながらも、更生の可能性を信じているほうが精神的に楽である。そして、そう思っている間は、「死にたくない」と叫んでいる被害者の顔が彼の脳裏から遠ざかっている。彼女は、「死にたくない」という叫びを、この被告人に対して向けただけである。そうだとすれば、被告人がその叫びを聞こうとしていないのに、なぜ裁判員がその叫びを聞こうとして苦しむことができるだろうか。彼は、この言葉に書けない気持ちは、他人には追体験が不可能であると思った。彼は改めて、守秘義務などと言われても特に話したいことはなく、カウンセリングの必要もないと思った。

(フィクションです。)

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