犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

一票の力を信じ投票に行こう

2009-08-02 23:54:41 | 国家・政治・刑罰
民主主義社会においては、選挙前には、いつも決まって2種類の声が聞かれることになる。1つは、「○○党に投票して下さい」というお願いである。もう1つは、一般論として「一票の力を信じ投票に行きましょう」という呼びかけである。この2つの声は、相互に矛盾している。選挙は得票数による勝ち負けの戦いであり、投票率による勝負ではないからである。立候補者の本音としては、対立候補者に投票されるくらいなら、棄権してくれたほうがましである。候補者によって最も恐ろしいのは落選であり、低い投票率などではない。その意味で、「一票の力を信じ投票に行こう」という民主主義の大原則は、当選・落選がかかっている政治家自身によって受け入れを拒まれている。

「民主主義社会における選挙とは、自らの暮らしや生き方に直結する政治参加の機会であり、その一票に重みがなければならない」。このように声高に叫ばれているのは、実際には選挙が自らの暮らしや生き方に直結する政治参加の機会ではなく、その一票には全く重みがないからである。「一票の力を信じ投票に行こう」と叫ばれるのは、それを信じないことによって民主主義のシステムが崩れることを恐れるためである。そもそも一票に力があるのであれば、それをわざわざ信じる必要はない。信じようと信じまいと、一票には力があるはずだからである。そして、当選・落選の渦中にある候補者本人は、投票率の低下を嘆いたりはしない。自分に投票してくれた一票には力を感じるが、対立候補者に投じられた一票には力を感じないだけである。

「投票は権利であると同時に義務である。棄権をした人には、政治を批判する資格はない」。このような意見が聞かれるのも、実際には投票をしようと棄権しようと、誰でも政治を批判することはできるからである。そして、この単純な真実を認めてしまうと、投票という面倒なシステムの価値が下がり、時間を取って真面目に投票に行った人がバカを見ることになる。この国の未来に対する真剣な思いを込めて一票を投じたところで、その人の思いは棄権者2人の前には勝てない。「あなたの一票が未来を変える」という言い回しが現実に正しくなるのは、自分が投票した候補者が一票差で最下位当選した場合か、自分が投票しなかった候補者が一票差で次点で落選した場合のみである。そして、そのような状況が容易に起きない以上、「自分が選挙に行っても行かなくても世の中は何も変わらない」という言葉は、多くの場合には真実である。

選挙というものは、いつでも「この国を変えるラストチャンス」である。この前の選挙の時にも同じことを言っていたような気がしても、やはり今回の選挙が「ラストチャンス」である。また、この次の選挙の時にも同じことを言っているだろうと予想されても、やはり今回の選挙が「ラストチャンス」である。民主主義における選挙とは、前回の選挙を忘れてこの国の歴史を反省し、次回の選挙を忘れてこの国の未来を語ることである。そのため、世の中はいつまで経っても正しくならず、理想の政治はいつまで経っても実現しない。間違っている世の中を正しくするためには、今の世の中が間違っていてくれなければ困るからである。また、理想の政治を実現するという目標の達成のためには、すでに理想の政治が実現されていては非常に困るからである。かくして、与党は野党を批判するのが仕事となり、野党は与党を批判するのが仕事となる。そして、選挙カーがうるさい候補者を消去法で消して行けば、最後には誰も残らずに棄権するしかなくなる。

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