p.5~6より
首に縄をかけられたフセインは周囲の執行人や立会い人と言い合ったあとに、正面を向き目を閉じて、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」とのイスラム教の信仰告白のフレーズを低く唱え始めるが、2回目のムハンマドを口にした瞬間に、激しい音と共に足もとの台座が外されて、その身体は真下に落下した。・・・その光の下に現れたフセインの顔は、絶命している表情には見えなかった。目はうっすらと開いていたし、口もとも微かに動いていたような気がする。
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これは、2006年12月30日、バグダッドにおいて執行されたサダム・フセイン元大統領の死刑の様子を述べたものである。このような文章を読むと、人間の心はある独特の動きをする。これは、正確には記述できない。「死刑問題について触れたときの心の動き」としか言えない。そして人間は、このような死刑執行の描写から問題を立てること自体に漠然とした違和感を抱きつつも、それが言語化できない。誘導尋問に乗せられているようでもある。これは、「与えられた情報を鵜呑みにせず、何事も自分の頭で考えましょう」と言っていた人が、「罪刑法定主義と誤判の防止は近代司法の鉄則である」との言い回しに触れると、急に緊張して硬直してしまう状況と似ている。死刑は生死の問題であるが、制度の問題である。しかし、やはり最後は生死の問題であり、個人の心の問題は完全に消えることがない。
社会の制度の問題として理屈を詰めて行けば、どうしても「罪と罰」のうち、後半の「罰」ばかりに議論が集中し、前半の「罪」が逃げてしまう。「朝起きて、刑務官の足音が近づいてくる。それがちょっといつもと違って、どこかのドアの前で立ち止まって・・・ もし自分のドアの前で止まったら、それでもう人生が閉ざされる。その恐怖は凄まじいと思うんです」(p.50)。これは死刑執行を待つ死刑囚の恐怖を語ったものであり、死刑廃止論を強烈に正当化する論拠とされてきた。しかしながら、ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。そもそもの最初の殺人事件、何の罪もなく殺されたほうの無念はどこへ行ったのだ。過去の被害者の心理描写をするのか、将来の死刑囚の心理描写をするのか。この選択自体が、1つの隠された理論武装である。この政治的な覇権争いは、結論が先にある以上、論証によって事態が動くことはない。過去も将来も、すべては現在の別名である。
「死刑を廃止すべきか」という問いになかなか答えが出ないとなると、人間は技術的に問いを変更したがる。例えば、「なぜ死刑が廃止できないのか」。はたまた、「死刑は国家による新たな殺人行為ではないのか」。これらの問いは、最初の問いよりも下手である。問いはメタファーとしての構造を作る。そして、いったん構造を作ると、それは物理的な構造でないにもかかわらず、他の構造が見えなくなる。最初の殺人行為と、刑罰である死刑執行を同等に考え、単純に一括りに「人殺し」としてしまえば、簡単に答えが出る。しかし、その答えは、問いの形式によって逆算されていたものである。ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。やはり、軸足は哲学的な絶対不可解の問いに置かれなければならない。すなわち、「なぜ人を殺してはいけないのか」。
「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース
首に縄をかけられたフセインは周囲の執行人や立会い人と言い合ったあとに、正面を向き目を閉じて、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」とのイスラム教の信仰告白のフレーズを低く唱え始めるが、2回目のムハンマドを口にした瞬間に、激しい音と共に足もとの台座が外されて、その身体は真下に落下した。・・・その光の下に現れたフセインの顔は、絶命している表情には見えなかった。目はうっすらと開いていたし、口もとも微かに動いていたような気がする。
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これは、2006年12月30日、バグダッドにおいて執行されたサダム・フセイン元大統領の死刑の様子を述べたものである。このような文章を読むと、人間の心はある独特の動きをする。これは、正確には記述できない。「死刑問題について触れたときの心の動き」としか言えない。そして人間は、このような死刑執行の描写から問題を立てること自体に漠然とした違和感を抱きつつも、それが言語化できない。誘導尋問に乗せられているようでもある。これは、「与えられた情報を鵜呑みにせず、何事も自分の頭で考えましょう」と言っていた人が、「罪刑法定主義と誤判の防止は近代司法の鉄則である」との言い回しに触れると、急に緊張して硬直してしまう状況と似ている。死刑は生死の問題であるが、制度の問題である。しかし、やはり最後は生死の問題であり、個人の心の問題は完全に消えることがない。
社会の制度の問題として理屈を詰めて行けば、どうしても「罪と罰」のうち、後半の「罰」ばかりに議論が集中し、前半の「罪」が逃げてしまう。「朝起きて、刑務官の足音が近づいてくる。それがちょっといつもと違って、どこかのドアの前で立ち止まって・・・ もし自分のドアの前で止まったら、それでもう人生が閉ざされる。その恐怖は凄まじいと思うんです」(p.50)。これは死刑執行を待つ死刑囚の恐怖を語ったものであり、死刑廃止論を強烈に正当化する論拠とされてきた。しかしながら、ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。そもそもの最初の殺人事件、何の罪もなく殺されたほうの無念はどこへ行ったのだ。過去の被害者の心理描写をするのか、将来の死刑囚の心理描写をするのか。この選択自体が、1つの隠された理論武装である。この政治的な覇権争いは、結論が先にある以上、論証によって事態が動くことはない。過去も将来も、すべては現在の別名である。
「死刑を廃止すべきか」という問いになかなか答えが出ないとなると、人間は技術的に問いを変更したがる。例えば、「なぜ死刑が廃止できないのか」。はたまた、「死刑は国家による新たな殺人行為ではないのか」。これらの問いは、最初の問いよりも下手である。問いはメタファーとしての構造を作る。そして、いったん構造を作ると、それは物理的な構造でないにもかかわらず、他の構造が見えなくなる。最初の殺人行為と、刑罰である死刑執行を同等に考え、単純に一括りに「人殺し」としてしまえば、簡単に答えが出る。しかし、その答えは、問いの形式によって逆算されていたものである。ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。やはり、軸足は哲学的な絶対不可解の問いに置かれなければならない。すなわち、「なぜ人を殺してはいけないのか」。
「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース
「(遺族のかわりの)死刑執行代理人」みたいにとられてしまう危険性があるからいわかなかったのでしょうか?自分の名誉と執行人の名誉を傷付けられたといっていましたがね。私は死刑を粛々と実行されることで非難を浴びるのはちょっとおかしいと思えますね。
個人的な意見ですがね。