昨日、北海道・岩見沢市の友人の奥様から彼が昨年12月の中ごろに
亡くなったとの知らせが届いた。脳出血だったそうだ。
友人とは言うものの1度も会ったことがない。
高校1年の時、受験雑誌に詩を投稿していた。情緒のない、理のかった
詩ばかりだったけれど選者の好みに合っていたのか何度も特選や入選に
選ばれて、読者の高校生たちからたくさんのお便りをもらった。
彼もその中の1人である。
どうも2歳年上のようなのでわたくしが高校1年生の時、彼は3年生
だったらしい。
受験もあり次第に数も減ってきていたけれど、今も続いているのは
5人である。そのうちの1人なのだ。
大学入学、就職、結婚と住所も変わり、姓も変わったのにどういう
訳か1年に1度年賀状のやり取りだけでつながっていた。
彼がどこの大学に行き、何処に就職したのかも知らなかった。
道庁に勤めていたと初めて知った。
4年ほど前、どういう風の吹き回しか飲み屋らしきところから突然
電話がかかってきて驚いたことがある。声を聞いたのもその時が
初めてでそして最後である。
年賀状の字はきれいで優しい字であった。
来年からはこの字を見ることがないと思うと寂しい思いがする。
俗に云う遠距離の異性との
年に一度の年賀状だけのお付き合い………、
今となっては、茉那さんにとって、
良い想い出になられているのでしょうね!
それにしても、高一からの長きに亘りのお付き合いとは、
眼を見張るものを感じます。
他の四人さんとも続いているようですね!
一年一度の効力といいますか、絆を感じますね。
「理のかった詩」とはどのような詩なのでしょう。興味があります(^^
茉那さんの過去ログに無きご主人を想う詩を拝読させていただきました。
当時の心境が手に取るように表現されていて 涙誘われました。
決して理など存在するような詩ではなかったと思いますが・・・
ご主人幸せものですね。
わたしも同級生や親友が既に何人も亡くなりました。
未だに年賀状を捨てきれず残してあります。
特に幼馴染は殆ど会う事は無かったけれど、それだけに残念でなりません。
新年から寂しい気持ちになりますが、ポジティブにいきましょう。(^^
何人かは半世紀を過ぎて交流が続いていますよ。
貴女の言う年一回の。
そうそう去年の秋に、そんな風に繋がっていたそ同級生と二人同窓会をしました。
たった二時間ほど神宮の杜の池の端の休憩用の
木造りの椅子に座って。
一瞬の触れ合いが永遠の思い出になる。
お陰で生きる今の時間が豊饒になりますよね。
一度写真を送ってほしいと言われたことがありましたけれど(若かったころ)お断りしましたので、お顔も知らないままでした。
他の人は、東京、宮崎、愛媛出身ですが関東に出てきてそのまま住んでいますので会ったことがあります。
わたくしの時代の地方都市では女性は地元の短大に進む人が多く、わたくしより早く社会人になっていましたので次第に縁が薄れて、今の年賀状友人はすべて男性です。
本当に不思議な縁ですね。
確かに年末のあわただしい時の作業ですから「面倒だ」という気持ちにもなりますが、全くなしのお正月も寂しいことでしょうね。
今年も「ぜひ今年こそ会いましょうね」とお互いに書きあって結局会わないで来た友人からの賀状をみながら笑えてきました。(毎年同じ)
国文学専攻でしたけれど、どちらかというと評論の方が好きで、短歌、俳句のような短い文学は苦手でした。
情緒に欠けているのだと思います。
ブログのような短い文章でもきっとその傾向は出ているのではないかと自覚はしているのですが、なおりませんねぇ。
しょうがない(笑)
わたくしも残りの4人とは数回会いました。
武相荘に行ったり、上野の美術館に行ったりもしました。
川崎に住んでいる人とは川崎駅で2回会ったことがあります。
同じ時代を生きてきた友人として通じ合うものがあるような気持ちがしました。
と言うのも、私は岩見沢の出身ですから・・とコメントしましたよね?
その方がお亡くなりになったのですね。
奥さまからご連絡があったということは、きちんと形に残されていたのですね。
自分の付き合いと夫の付き合いは別で、そんなときの整理もちゃんとしなければならないのだな
と、改めて思いました。
みっくさんが岩見沢のご出身だということをその時伺いました。
その方が年末に亡くなったとの知らせが届いてびっくりしました。
札幌には5回行きました。
函館本線にも、室蘭本線にも乗りましたから岩見沢は通っているのですけれど、降りたことがありません。
会うことのなかった年賀状だけの(高校生のころは何回か便りのやり取りはあったと思いますが)友人ですが寂しい思いでいっぱいです。
「長い間、お便りいただいていて・・・」と奥様はおっしゃいました。
本当に長い年月でした。