台風特異日

2018-09-26 13:40:35 | 日々思うこと

今朝の朝刊は1ページすべてと社会面で「伊勢湾台風」の59年目だと

大々的に報じていた。お昼のNHKも愛知県と三重県で慰霊祭が

行われたと述べていた。

先日は伊豆の国市で9月26日が狩野川台風の60年目に当たるので

慰霊祭が行われたと報じられた。

調べたら洞爺丸台風は1954年9月26日。

大きな台風が日本を襲った「台風特異日」と言われている。

狩野川台風の翌年の同じ日に伊勢湾台風が日本を襲ったことになる。

今日、9月26日は何とか無事に過ごせそうだけれど、急に発達した

大きな台風が進路を東に変えて沖縄の南をのろのろ彷徨っている。

チャーミーだなんてかわいらしい名前だけれど来てほしくない

来訪者である。これ以上日本に災害をもたらしてほしくない。

今年は色々各地で大きな災害があったのだ。

何とか消滅してほしいと儚い望みを抱いているのだけれど、

台風が「神風」だった時代もあったのだなぁ。

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「住宅・土地統計調査」

2018-09-25 22:06:36 | 日々思うこと

一昨日の午後、ご近所の奥さんがピンポンをせわしなく鳴らした。

何かと思って出てみると「こんなのを若い人が持ってきたけれど、封を

切っても良いだろうか」と鋏までもって1通の封筒を差し出した。

「住宅・土地統計調査」用紙。表にインターネットで回答できる人用

と書いてあったような気がする。

封を開けてみるとインターネットで回答するようにとあり、

出来ない人は後日紙での解答用紙を持って行くと書いてあった。

50歳に近い息子さんがいるのだけれど、彼が「持って行って相談して

きて」と言ったので駆け込んできたという。

「坊ちゃんにパソコンでやってもらったら?」と言うとPCはできないという。

数年前に我が家もこの調査に当たりPCで回答した。

簡単ではあるけれど、よそのお宅の家の中のあれこれを知りたくない。

ましてこのお宅にはPCがないので当然息子さんのメールアドレスもない。

家を建てたときの設計図を持ってくるのでやってほしいと

彼女は言ううけれど、こればかりはできないと断った。

ともかく、紙の解答用紙がきてから書けばよいと言ったのだけれど

彼女はできないので設計図をもって市役所に行ってくるという。

*******

でもどうして最初に回答をPCでするか紙かを聞いて渡さないのだろう。

用紙も人手も二重手間ではないか。

改めてどのくらいの割合でPC回答があるのかと思う。

今の世の中、かなりの人がPCを使うようになってきたが、地方では

まだまだ扱う人が少ないのかもしれない。少なくとも60歳くらいまでの

人はほぼ全員使っているような気もしていたけれど、40代の男性が

使えないというのだから認識不足だったようだ。

 

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中秋の名月そして「招待所」の思い出

2018-09-24 11:02:43 | 日々思うこと

今日は中秋の名月。

薄は用意できたけれど萩はなし。ちょっと貧弱だけれど、お月様には

我慢していただく。

里芋を煮て、お団子の代わりに「お月見」というセットのお菓子が

売っていたのでそれを買ってきた。

でも、天気予報によると今夜のお天気はやや心配。もしかしたら無月に

なるかもしれないが雨月にはならないであろう。せっかくだからちょっと

雲の間から顔を見せてもらいたい。******

今朝新聞を読みながら聞くともなしにTVをつけたままにしていたら

中国の美人女優が今は「招待所」に軟禁されているのではないかと言っていた。

「招待所」は懐かしいというか、辛い思い出がある。

昔、夫とシルクロードへ15日の日程で出かけた。

西安に4日間滞在して見物後、飛行機で烏魯木斉(ウルムチ)に飛ぶ。

ウルムチで博物館やバザール、牧場、カザフ族のパオなどを見学して宿泊。

トルファンへ移動。火焔山、古墳、いくつかの故城、博物館、カレーズなど

に立ち寄り、翌日は飛行機で敦煌に行くはずであった。ところが飛行機が

飛ばない。砂山公園などを見学したけれど、結局とりあえずバスでハミまで

移動。朝、1時半にハミの招待所に入ってそこで宿泊した。

翌日9時に招待所を出発、敦煌に着いたのは夕方5時。

バスの運転手は帰りのことも考えていやがったそうだけれど、中国の

ガイドと日本の添乗員が頼みまくり、チップを積み上げてやっと了解

してくれたらしい。添乗員は沢山のレトルト食品を持参していて

それらを招待所で食べさせてくれた。大変だったと思うが優秀な

添乗員であった。(ワールド航空サービス)

その後は順調に莫高窟、陽関などを見物し、酒泉に泊まり、嘉峪関などを

見物して蘭州へ、黄河遊覧などをしたり、見物して広州でも宿泊。

その後、香港に泊まり翌日帰宅した。

長い長い天山山脈の下の真っ暗な砂漠を夜通しバスで移動し、招待所で

1夜を過ごした記憶は生涯忘れられない。

「招待所」もそのころとは様子が変わっているらしいが、あの広い中国の

どこの招待所に彼女はいるのであろう。

 

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お寿司屋の大将のこと

2018-09-22 11:07:15 | 日々思うこと

行きつけのお寿司屋さんに行った。5時だったので先客はいない。

大将がいやに落ち着かなくて話しだした。

近々札幌駅前のビジネスホテルで行われる姪の会費制結婚式に出席

しなければならないと言う。

「飛行機はおろか、電車にも乗ったことがないのに、どうしてよいのか

不安で仕方がない。娘が飛行機のチケットをとってくれて、飛行場まで

名鉄の特急に乗ればよいと教えてくれたけれど、着いてからちゃんと

乗れるかどうか・・。帰りの飛行機が遅いので名鉄の終電に乗れるかも気に

かかる 」と。

帰りの飛行機は持ち込める荷物だけにすること。もし、多いようなら

ホテルから宅配便で送る。そうすれば飛行機から降りてすぐに電車に乗れる。

とだけ言ったけれど相変わらずシャリを握る手つきも不安げだった。

いい大人がなんてこった!小学生でもできるよ‼(とは言わなかったが)

 我が家の子供は、市内の学区外にも1人で行ってはいけないと学校で

 言われていたのに名古屋の科学館、プラネタリウムによく通った。

 京都まで美術展に出かけたことも何回もあった。

 そしてついに6年生の時、南九州へ行きたいと行程表を親の前に

 差し出した。行きは大阪から寝台車で鹿児島に行き、帰りは

 宮崎から飛行機で帰ってくるという。

 小学生を一人で泊めてくれるホテルはあるのか、わたくしはちょっと

 迷った。夫は行きたいというのなら行かせようという。

 鹿児島、林田温泉、宮崎に泊まる計画。よく家族旅行で切符の手配を

 頼んでいた近ツリに依頼したと思う。

 彼は嬉しそうに出かけて行った。そして小牧飛行場に迎えに行ったら

 シャボテンのお土産を抱えて意気揚々と降りてきた。

 PCも携帯もなかったころである。旅行中1度も電話はなかった。

 (我が家は旅先で家に電話する習慣がなかったので当然であるが)

 旅館のお風呂で脱いだ下着をすべて忘れてきたとか、朝寝して定観に

 乗り遅れタクシーで追いかけたとか失敗しながらもたくましくなって帰って

 来たと思った。1人っ子である。強く生きねばならない。

***********

モーニングの帰り、スーパーに寄って買い物をした時、レジを過ぎて自分の

袋に入れ替えようとしていたら仲間の1人が「これ頂戴」と駕籠に入っていた

紙片を持って行く。2駕籠買い物したので2枚ある。

どこかへのバスツアーの応募券らしい。袋へ入れ替え終わってみたら

彼女たちはせっせと鉛筆を走らせている。数うちゃ当たるで枚数が多いほうが

よいのだ。

そういうツアーで京都宇治に行ってきたとお土産をもらった。

宝石やさんに立ち寄り90分も時間をとって、肝心の平等院では時間が

ないので鳳凰堂の中には入るなと言われ外回りしか見られなかったという。

帰りが1時間遅くなっても良いので中に入りたかったのにと悔しがっている。

彼女たちは天橋立に行って股覗きをしたかったのに向う側へ行かれなかった

とか、河津桜を見に行くつもりが知多の河津桜が数本生えている所だった

とかいつも生煮えのようなツアーばかりしている。

奈良へ小学校の修学旅行でしか行ったことがないので行きたいけれど

京都までばかりで奈良へのツアーがないというので京都で乗り換えれば

簡単というのだけれど新幹線に切符を買って乗ったこともないと

敬遠している。

彼女たちは娘時代は親に保護され、結婚してからは夫に保護されて

自立して過ごしたことがないので1人歩きできないのかと思っていたら

一家の大黒柱であるお寿司屋の大将までが同じ有様である。

「しっかりせい!」と60代の大将の背中をポンと叩いてやりたい。

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友人のカメラやさん

2018-09-19 14:25:58 | 日々思うこと

小学生の時近所に1歳上の男の子がいて時々遊んだ。写真屋の子だった。

彼がどこの中学校へ行ったかは知らない。そのころはもう遊んでいなかった。

高校に入って学校で偶然姿を見たとき、お互いに友人もいたので目礼して

すれ違った。

後に里帰りした時、彼のカメらやさんが「イオン」に出店したり

スーパーにお店を構えていると聞いて「成功して商売繁盛しているのだな」

とうれしく思っていた。

 

こちらに越してきてパスポートの書き換えが必要になっった時、

彼のお店を訪ねた。その時、彼の写真集を見せられて遠慮するわたくしに

立派な写真集3冊を押し付けられた。

変にまとわりつくような、粘っこいというかねちねちした話し方をする

嫌な大人になっていた。這う這うの体で逃げ出してしまった。

彼が癌にかかっているという噂を聞いたのはそれからしばらくしてからだった。

ところがある夕方我が家の近くのコンビニで偶然出会ってしまった。

実家の近くにコンビニがないので買いに来たということであったが、

やはり粘っこい話し方で話しかけてきた。

彼の息子が秋山庄太郎氏に師事していて仲人もしてもらったと誇らしげであった。

まずは後継者ができたのだと幼友達の幸せそうな顔を見てよかったなと

思って別れた。

わたくしが彼を見たのはそれが最後である。

最近跡を継いだ彼の息子が警察に捕まったという話を聞いた。

イオンからもスーパーからももうかなり前に撤退していて自宅で

細々と営業しているらしかった。

お客から預かったカメラを他人に売った容疑で。

弟も具合の悪くなったミノルタのカメラを持って行ったらもう直らないので

預かると言い、その後付属品が残っていたらそれも欲しいと言ったそうだ。

結局返ってこなかったと言っていた。そういうことを何件もして捕まったと

いうことであった。

弟はそのカメラ屋に車庫を貸していたが、何年分も未払いで踏み倒されたらしい。

それくらいの被害はまぁ大したことがないというので聞いてみるとこの

カメラやは借地に建っていて、息子の家まで増築しているので2棟が

今はもぬけの殻になっていて(家族全部いなくなった)、地主がとても

困っているらしい。

時代の流れでデジカメ全盛の今、カメラやへ現像を頼みに行く人は少なくなった。

また、カメラも大きなお店で買うので小さな小売りの店は立ち行かなく

なったのだと思う。

彼と息子は時代に乗り遅れた。商売は難しい。

今もなお、大きな富士フイルムの看板が聳えるお店は残っている。

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