私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

寒波

2017-01-14 15:01:57 | 日記

January 14, 15, 2017

日本列島に寒波が押し寄せるという予報が、しきりに報道されていた。今日は受験生には、センター試験の日だ。毎年この頃寒い日が続く。雪国ではさぞ大変だろう。今日は土曜日、私は病院に皮下注射を受けに行く日だ。気温は低かったが薄日が差してきたので、何とか行ってこれた。立春を過ぎれば三寒四温、寒さももう少しの辛抱だ。

点訳の校正がほぼ片付いたので、図書館から借りてきている本の中で、まず大江健三郎『晩年様式集』を読んだ。この頃勘違いすることが多い。先日のブログで、本書が新刊なのに図書館からすぐに届いたことに触れたが、新聞に出ていたのが文庫になってからの本のことだった。図書館からは、2013年に発刊されているハードカバーを借りたので、頭の中で何かがすり変わってしまったようだ。大江健三郎の著作は、初期の作品と、『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』以後の作品はほとんど読んでいる。少し面倒くさいと思いながらも読み続けてきたが、本書は、個人的なテーマを主題にしてきた作品の集大成といったところだろうか。文学的な価値はよく分らないが、私は同時代を歩いてきたものとして、大江の、また家族の物語を興味深く読んだ。障害を持ったご長男も登場する。大江をはぐくんだ四国の森も出てくる。

主人公の作家・長江は80歳、家族をとり囲む様々な人間関係の中で、生きていくこと、真摯に現実と向き合って生きていくことは辛いことも多い。しかしこの人々の営みの中から、絶望ではなく希望があらわれる。若い頃から、つかず離れずに読み続けてきた作家の最後と思われる作品は、やはり胸を打つものがあった。本書の最後に書かれている詩の一部を引用させてもらう。

(略)

気がついて見ると、
私はまさに老年の窮地にあり、
気難しく孤立している。
否定の感情こそが親しい。
自分の世紀が積みあげた、
世界破壊の装置についてなら、
否定して不思議はないが、
その解体への 大方の試みにも、
疑いを抱いている。
自分の想像力の仕事など、
なにほどのものだったか、と
グラグラする地面にうずくまっている。
あの日、「自分の木」の下に 
来るのが遅れた老人は、
いまの私だ。
少年に答える言葉は見つからぬまま・・・・・

誕生から1年たった
孫に、私がかいま見たはずの
老年の似姿は、ミジンもない。
張りつめた皮膚に光をたたえて
私を見かえす。
その脇にうずくまる、私の
老年の窮地。
それを打ち砕くことも
乗り超えることもできないが、
深めることはできる。
友人は、未完の本にそう書いていた。
私も、老年の
否定の感情を深めてゆくならば、
不確かな地面から
高みに伸ばす手は、
何ものかにさわる
ことが、あるのではないか?
否定性の確立とは、
なまなかの希望に対してはもとより、
いかなる絶望にも
同調せぬことだ・・・・・
ここにいる一歳の 無垢なるものは、
すべてにおいて 新しく、
盛んに
手さぐりしている。

私のなかで
母親の言葉が、
はじめて 謎でなくなる。
小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。 しかし
私らは生き直すことができる。    (大江健三郎『晩年様式集』講談社)