孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

富士山の宿題終わったの?

2015年09月17日 | 日記
やはり、心配した通りになっている。

いつの間にか、「世界遺産になった富士山・・・」と聞いても違和感がなくなりつつある。まるで、富士山は世界自然遺産に登録されたかのようである。

私は、どちらでも構わないのだが、当初からユネスコの世界遺産如きで、山梨・静岡料県知事がわざわざ世界遺産委員会の開催されたカンボジアのプノンペンにまで出向いて、登録が決定されると飛び上がって喜び、口を開けて涎をたらしてひょっとこ踊りでも踊りだしそうな気配だったのを映像で見て、ドン引きしたものだった。

右肩上がりで増え続けてきた登山者数も今年は減少したそうで、昨日はローカル局が静岡側の登山道にある山小屋経営者にインタビューしていた。

縁あって、私は過去に何度か富士山五合目で外国人登山者の登山指導・観光案内をするアルバイトをしたことがある。丁度、世界遺産が6月に決定した年も、現場にいた。

 最盛期は毎年こんな状況です。

日本人の登山者たちは、夢遊病者のように「世界遺産・・世界遺産・・」と口にしていたが、私が接した外国人登山者たちは、ほとんどが「うん?世界遺産?知ってるよ。富士山が登録されたって?だからどうしたの?」

こんな感想で、聞いた方が恥ずかしくなってしまう感じだったことを記憶している。

そもそも、富士山は山として、自然遺産として世界遺産登録されたのではない。「信仰の対象と芸術の源泉」としての文化的意義があり、その価値が世界文化遺産として登録されたのであった。

全体を構成する「構成資産」は全部で25ある。その一つに「富士山域」として、西湖や精進湖などの周辺湖や登山道などが含まれているが、それにも「標高1500以上を資産範囲」という限定条件がついているのは、あまり知られていない。

というより私は、意図的に知らせていないのでは・・という気がする。

 
(入山料を払うと貰える世界遺産記念の缶バッジは、意外にも人気沸騰だった。)


何せ富士山の周りは開発が進んでいるし、いくら清掃活動をしてもゴミはなくならないようだ。そして、御殿場の東富士演習場からは普段でも大砲の音がボンボン聞えてくる環境なのである。

さて、マイクを向けられた山小屋経営者はシーズンが終了して、実入りが期待以下だった所為か、浮かぬ顔で「我々にとっては、世界遺産登録はありがたいこととは思っていません。」と話していた。

 寝返りできません。素泊5500円

「以前は五合目まで自家用車で24時間来れたのが、時間規制されたり、乗り入れ禁止でシャトルバス運行となったりで、入山者数が減ってしまったじゃないか・・・」というのが本音のようだ。

 利ざやが大きそう・・

「山小屋経営が立ち行かなくなって、小屋が無くなれば、困るのは登山者たちですよねぇ・・・。最近の登山者はコンビニのお結び持参でねぇ・・・」と、脅迫めいたボヤキを言っていたが、地元の方が「二ヶ月で一年分を稼ぎ出すことができるすごい利権なんだよね。」と小声で私に教えてくれたことがあった。

この富士山全体で40軒以上ある山小屋という利権には、行政も手が付けられず、予想したとおりこの利得者集団の対応が、今回の世界遺産登録が完了するかどうかのネックになっているような気がする。

世界文化遺産登録は、実はまだ完了していないのである。あれは、条件付暫定登録であり、宿題付きだったわけだ。そして、その宿題提出期限があと半年と迫ってきている。

 イコモスとはユネスコの諮問機関です。国連も配下にいくつも関連組織を抱える巨大な利権組織なのですね。

これらの宿題を提示された山梨・静岡両県の関係者は、これまで何度も会議を繰り返しては、取り組んできたようだが、両県は昔から犬猿の仲である。富士山を「銭の山」と考える甲斐商人(あきんど)に対して、食べられなくなったらとりあえず乞食になればいいという「駿河乞食」。県民性も違いすぎる。

また、富士山を観光資源として利用し尽くそうと考えていそうな知事に、仕事は副知事に任せて、支持者の主婦たちと知事室から富士山を見るだけで十分満足しそうな知事。両県の首長の力量にも人間性にも差がありすぎるような気がする。

 富士山登って少し痩せたら?

富士山の噴火の話もなんだかありえなくも無い話になってきたようで、今後の火山帯の動向が気になるところだが、噴火で営業ストップとなる前に少しでもたくさん稼ごうという意欲には、頭が下がる思いがする。

世界遺産などどうでもいいが、登録取消しという失態はできれば避けて欲しいものである。


また出た、「謝罪せよ」。

2015年09月17日 | 日記
お隣の半島部族の日本大使が産経新聞のウェブサイトニュースの記事について、わざわざ産経新聞社を訪問してイチャモンをつけたそうで、今朝の朝刊の二面にデカデカと載っていた。

今年就任したばかりの柳ナントカという名前の老人である。あの部族たちの苗字はたった200種類ちょっとしか種類がないそうで、日本人の苗字が確か30万種類近くあるから、「たった200種類」と言っても過言ではないだろう。

しかもその中でも「金・李・朴・崔・鄭」の主要5種の苗字が全体の半数を占めるというから、街で「キンさ~~ん!!」と叫べば、通行人が何十人も一斉に振り向くだろう。想像しただけで鳥肌が立つ。

私は、海外赴任しているとき、彼らのアルファベットで書かれた名刺をもらうたび、表記の仕方が様々なのをみて紛らわしかった。

同じ「朴」でも、「Pak」だったり、「Park」だったり、順番も「Pak, Chon-Bak」だったり、「Chon-Bak Park」だったり、「Pak Chon Bak」だったりする。

女子ゴルフの賞金稼ぎで荒稼ぎしている「イボミ」の「イ」とは漢字で書けば「李」で、英語表記になると、人によっては「Lee」だったり「Ree」だったりする。

中には例の変てこなハングルの名刺を出す人もいるから、まったくめんどくさい連中である。

さて、就任早々の挨拶代わりに産経新聞社にイチャモンを付けに来た老大使は名前を「柳」というそうで、「ユ」というフリ仮名がついていた。多分、英語名は「Ryu」となるのだろう。この方である。



何が気に入らなかったのかというと、先月30日のウェッブサイトニュースの、『米中二股 韓国が断ち切れぬ『民族の悪い遺産』というタイトルの産経新聞・野口委員の書いた記事だった。

記事を抜粋すると、書き出しのリードはこんな具合でスタートしている。



『韓国外交を眺めていると、中島みゆきさんの名曲《時代》が、どうしても頭に浮かぶ。  ♪めぐるめぐるよ時代はめぐる 別れと出会いをくり返し・・・・・ 』


『時代を《事大》に置き換えると、韓国外交哀史が鮮やかに浮かび上がる。《事大主義》とは《小》が《大》に《事(つか)える》こと。強国に弱国が付き従う外交形態を指す。』

「事大主義」が貫く外交」というサブタイトルで、以下本論に入っていく・・・。

 『李氏朝鮮(1392~1910年)も末期、清→日本→清→日本→ロシア→日本→ロシア…と、内外情勢変化の度に事大先をコロコロと変えていった。そのDNAを色濃く継承する韓国は、李氏朝鮮の再来を思わせる見事な「事大ブリ」を披露する。』

「事大ブリ」という言い回しに思わず噴出しそうになったが、あの女酋長が握手する相手を求めて右手を出して右往左往している光景が眼に浮かぶようではないか。



『まさに《事大》は《めぐる》が、朝鮮が事大先を替える度、わが国は存亡の危機に瀕してきた。日本が独立を促すと、清にすり寄り日清戦争(1894~95年)の火ダネを造った。日本が勝ち、朝鮮を独立させるやロシアにすがり、日露戦争(1904~05年)誘因の一つを造った。朝鮮→韓国が《別れと出会いをくり返》すと、日本は大厄災に遭う。』

『李氏朝鮮には、朴大統領のような女性の権力者がいた。第26代王・高宗(1852~1919年)の妃・閔妃(ミンピ、1851~95年)である。』

李氏朝鮮時代の閔妃(ミンピ、1851~95年)を今の女酋長に照らしながら記事は進み、その女酋長の実父の朴正煕(パク・チョンヒ)・元大統領(1917~79年)は、事大主義を「民族の悪い遺産」だと述べたことをしっかりと付け加えてから、最後にはこうまとめていた。


『ところで、韓国軍は抗日軍事パレード参加を見送るようだ。豊臣秀吉(1537~98年)の朝鮮出兵時、明(中国)軍の一翼として行軍した李氏朝鮮軍と同様の“事大絵巻”が観られないのは、少し残念な気もする。』

読み終えて、パチパチパチ・・と拍手したくなるような記事だったが、柳大使は、「憤りを覚える内容で、朴大統領や韓国国民を冒涜している。」とお怒りで、記事の削除と謝罪を要請したそうである。

自分たちはありもしないことを捏造して世界中に喧伝して平気なくせに、事実を指摘されると怒り狂い、「謝罪せよ」と言う、いつものパターンである。

それに奴隷の如く従って、見事な土下座コントを演じたのが、ルーピー鳩山だったが、「敷物の上で膝を折るのは、土下座ではない」と現地でコケにされたのには笑った。

さて、大使の要請に対して、産経新聞社はどう対応したか・・。

熊坂隆光社長は、「記事は記者の自由な論評、評論であり、削除や謝罪をする考えはない。』とピシャリ。

さらに「自由なジャーナリズムの表現は自由な社会を構成する要素のひとつだ」と要請を拒否したそうである。

半島の風土病「火病」に罹った老大使を産経新聞社社長が穏やかに諭した・・の名場面、大拍手と共に幕が閉じていくような朝刊の記事だった。