なーんもさ

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私の生誕地を訪ねる旅ー群馬県太田市

2017年08月31日 | 旅行

孫娘の行事があるので、久しぶりに東京へ行きました。

今回は、私が行きたかった生誕地(群馬県太田市)と姉の墓参り(埼玉県行田市)

にも行くという盛りだくさんの旅でした。

 

成田から息子の車で東京へ。

お上りさんだから、スカイツリーをパチリ。

孫娘達のことは記事にしたらダメだから、とってもすばらしい行事があったけど、シークレット。

東京近郊にいる男の孫も合流して楽しかったです。

 

翌日、私の「生誕地を訪ねる旅」は息子の車で二人で出かけました。

戦争中、群馬県太田市には「中島飛行場」があり、「ゼロ戦」という戦闘機を作っていました。

父は北海道からそこへ働きに行き、ゼロ戦を作っていたのです。

私はその飛行場の直ぐそばの借家で5番目の子として誕生しました。

 

戦争がますます厳しくなり、父が兵隊に招集されました。

昭和20年2月10日朝。

何の前ぶれもなく、米軍の戦闘機「B29」の大編隊が太田市を攻撃しました。

爆弾が雨あられと空から町中を爆撃し始めました。

 

母は、11才の兄と、8才5才の姉を両腕に抱え壕に逃げ込みます。

9才の姉は1才の私を背負い走りますが逃げ惑う大人達に突き飛ばされ地面に這いつくばって泣いていたそうです。

機関銃が上空から逃げ惑う人々を打ちまくります。

その時、母が姉を腕に抱え込んで壕に引きずり込んだのです。

 

防空壕を作る父がいないので、土管を並べて戸の代わりに畳を立てただけの壕です。

そんな土管の中にいた母と子ども5人は助かりました。

爆撃の合間に見えたのは、家は爆風で潰れ大きな穴が口を開けていて、

周りは爆弾にやられた死体がばらばらになって転がっていたそうです。

工場は焼夷弾に焼かれ赤黒い煙が炎々と天を貫いていて、町は一瞬にして壊滅したそうです。

 

これらの体験は、私を背負っていた姉が高校生の時に書いた作文に詳しく書いてあったのでよくわかりました。

(耳にタコができるほど、姉に『私はあんたの命の恩人だからね。』と聞かされています。)

 

息子にもその作文を読ませ、今回の旅になりました。

なんと、息子の東京で友達になった二人が太田市の出身で、今回の旅では

旧住所の新しい地番を調べてくれて助かりました。

 

ここら辺が私が生まれた場所のようです。ナビは便利です。

直ぐ近くに、中島飛行場跡地に建った「SUBARU」という看板が。

スバル自動車の工場があちこちにありました。自宅のあった直ぐそばです。

曾祖母が私をおんぶして、姉の手を引いて散歩した「大光院」呑竜さまにも行って見ました。

「子育て呑龍様」といわれた和尚さんが捨て子や親が育てられない子を預かったという寺です。

うちの人たちがよく話していたので、しっかり見ましたよ。

 

終戦になり、父は無事に帰ってきました。

今、政治家がきな臭い法律を作り軍事費を大幅にUPさせています。

二度と戦争をしてはいけません。

一人一人が「戦争NO」と叫ばなければいけません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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