指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『おかしな時代』 津野海太郎

2008年12月19日 | その他
津野海太郎の『おかしな時代』(本の雑誌社)を読み、とても面白かった。
1960年代前半から1970年代に至る日本文化史の一面である。
津野が、かつては編集者であり、演出家でもあったなど、今の和光大教授としての彼しか知らない人には驚きだろう。
1970年代中頃、「黒テント・演劇センター68・71」の公演に行くと、タコ入道のような津野の他、サングラスの佐伯隆幸、小柄な田川律らの面々が会場整理をしていたものだ。

津野は、早稲田の学生劇団演劇研究会にいて、友人で早世した演出家草間暉雄の代わりに、1962年に旗揚げした劇団独立劇場の中心になる。
一方で、今はない新日文(新日本文学会)の事務局に就職する。
東中野にあった新日文の事務所には、高校生時代にバック・ナンバーを買いに行ったことがあるが、汚い木賃アパートで、「こんな貧乏世帯なのか」と思った。

新日文がつぶれた後、津野は晶文社に参画し、独立劇場に文学座からの俳優草野大吾、岸田森らの参加を得て六月劇場を創立する。
そこに当初は、蜷川幸雄らも参加する話があったというのは初耳。
その六月劇場の長田弘作、津野演出の『魂へキックオフ』を蜷川が紀伊国屋ホールに見に来た。
そのとき、蜷川が「この程度か」と言う顔をして帰ったというので、津野らの劇の水準が分かる。
後に、単行本で「伝説の公演」を読んだが、つまらない戯曲で、「六月劇場って、こんなレベルだったか」と思った。

だが、晶文社での仕事はすごい。
島尾敏雄作品集に始まり、小林信彦や片岡義男の本は、即ほとんど買って読んでいる。
その後、『日本版ローリング・ストーン』に関わり、『ワンダーランド』、改め『宝島』の創刊など、私が興味を持った雑誌、本の多くが津野や長田弘らが関わっていたものであることを知り、本当に驚いた。
俺は、こいつらの手の上で踊っていたのか。

そして、一方で新日本文学会以来の、政治的な批評性があると共に、今日のサブ・カルチャーの流れを作っている。
それは大きく見れば、新日文のイデオローグであった評論家花田清輝の、文化路線「前衛性と大衆文化」でもあったと改めて思った。

実は、私は高校時代は新日文を購読し、花田清輝も愛読していた。
だが、途中で吉本隆明に取り付かれ、花田はほとんど読まなくなったが、志向性としては私の中に花田清輝はずっと残っていたのだと思った。

津野海太郎の、大学時代の劇団での言動については、彼を知っている方からいろいろ聞いているが、勿論ここには書かない。

『まぼろしの邪馬台国』

2008年12月19日 | 映画
早稲田に『人類館』を見に行くまでの間、時間があったので渋谷東映で『まぼろしの邪馬台国』を見る。
全く期待していなかったが、意外に面白かった。
渋谷東映は東口駅前で、前は地下に渋谷松竹があったビルの7階。

NHKラジオの福岡放送局で、当時誰も知らなかった邪馬台国について、竹中直人の宮崎康平島原鉄道社長が語り、聞き手だった地元放送劇団員の吉永小百合が島原に来て、観光バス事業に無理やり参加させられる。
観光バスは意外にも当たるが、台風で鉄道が寸断され、壊滅的な打撃を受ける。
鉄道と言っても、蒸気機関車による単線の地方鉄道にすぎない。
その際、崩れた路肩から土器が出土し、宮崎は本格的に古代史研究と遺跡発掘に没頭する。
彼はもともと早稲田大学で古代史を専攻した人間で、古代史等膨大な書籍を所有していたのだ。だが、社業を疎かにしたとのことで、社長を解任されてしまう。
失意の中で、宮崎は幼い子供のため吉永に求婚し、二人は一緒になる。
ここまでの、竹中の常軌を逸した言動はとても面白い。
脚本が小劇場出身の大石静なので、展開やドラマの作り方はアングラ的である。
また、役者も竹中を始め、竹中に敵対する会社役員の石橋蓮司、不破万作、前妻の余喜美子など、小劇場の連中が多数出ている。
また、古代史学会で宮崎と対立する教授に、早稲田の大槻教授、線路の復旧工事の労務者に大仁田厚など多彩なキャスト。

だが、吉永、竹中の二人が邪馬台国を探して北九州を歩く段になると途端につまらなくなる。
理由は簡単で、そこには二人の「愛情物語」しかなく、ドラマがないからだ。

邪馬台国に関しては、九州説、大和説があり、宮崎氏は当然九州説で、松本清張らも九州説である。
私は全くの素人なので、詳細は分からないが大和説の方が正しいのではないか、と思っている。
理由は、『魏志倭人伝』が載っている『後漢書』は、言うまでもなく中国の歴史書である。
本質的に事大主義の中国が、日本の最高権力として、九州の一地方政権に過ぎなかっただろう「九州の豪族」(九州説論者の邪馬台国)を、日本の代表政権とは認めなかっただろうと思うからだ。