指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

労働歌に違和感がなかった時代

2008年12月06日 | 音楽
フィルム・センターの今月は、西端100年の記録映画監督亀井文夫の特集。
今日は、大日本除虫菊・キンチョー蚊取線香の『キンチョー蚊取線香』のPR映画が前半。
後半は、亀井の代表作の一つで、原爆病患者の現状を描いた1950年の『生きていてよかった』

昭和30年夏の広島、長崎での「原水爆禁止世界大会」を背景に、戦後10年でも原爆症に苦しむ人たちが多数出て来て、証言する。
原爆乙女、原爆孤児等々、最低辺で暮らしている庶民の生活がドキュメントされている。
解説は、山田美津子、すなわち山田五十鈴。
彼女は、当時左翼映画演劇人に同調し、亀井文夫とも劇映画『女一人大地を行く』を撮っているし、他にも独立プロ作品に出ている。偉いね。やはり心がけが違うと思う。

ところで、この映画で参ったのは、広島の原爆青年会の若者たちが会合の中で、彼らが最も愛好する歌として、『しあわせの歌』、「しあわせはおいらの願い」を歌うことだった。
「しあわせは、おいらの願い、仕事はとっても苦しいが、流れる汗に」という歌は、電産労組が募集して当選した歌だそうだ。当時の大ヒットで、幼い私も知っていたくらいだ。
後には、フランキー堺、左幸子主演の映画も日活で出来た。

久しぶりに聞くとやはり、恥ずかしいが、当時普通の若者が歌っていて違和感がないほど、労働歌は、庶民の生活感情の中に溶け込んでいたのだろう。
事実、この歌は、「おいら」と言い、「仕事はとっても苦しいが、流れる汗に」と工場労働者の現実を表現している。
その意味では、労働歌という観念性ではなく、現実的な歌になっている。
その辺が、大ヒットした理由なのだろう。

映画『生きていてよかった』は、さすがに真摯で立派な作品で、思わず居住まいを
正したくなるような映画だった。

帰りは、用があって、横浜駅西口のそごうに行くが、大変な混雑だった。
こういうのを見ると、「どこが不景気なの」と思ってしまう。

スラム・クリアランスの思想

2008年12月06日 | 横浜
横浜市南区、中区の京浜急行線下にあった「黄金町の特殊飲食店」が、神奈川県と横浜市の緊密なご協力により、撤去されて年月が経つ。
そして、跡地には、「文化」関係の店舗が入れられていて、文化の話題となっている。

こうした都市におけるスラム・クリアランスは、1960年代後半の東映のヤクザ映画では、新興の近代ヤクザの仕事になっていた。
そこに暮らし成業としていた善良な庶民は、ヤクザの暴力で泣く泣く立ち退かされる。
だが、最後は正義の味方だが、旧弊な反改革派の高倉健や鶴田浩二が現れ、天津敏、安部徹、遠藤辰郎らの卑怯な連中を斬ってしまい、エンドマークになった。
勿論、それでスラムクリアランスが終わったわけではなく、多分いずれスラムは撤去され、近代的な街になったのだろう。時代の推移から見れば、天津らの方が正しかったのだ。

確かに、以前の京急ガード下は、黒澤明の『天国と地獄』で描かれたほどではないが(あれはすべてセットなのだが、未だロケーション撮影で黄金町は、今でもあのようだと信じている方があるらしい)、店の前にはフィリピンやタイの女性が立ち、売春行為をしていた。
道徳的には良いことではない。
だが、私が男だから言うわけではないが、都市からあの実態を完全に払拭できるものだろうか、女性の方は嫌がるに違いないが。
昔アメリカに禁酒法があり、当然にも失敗したように、人間は本来「分かっちゃいるけど止められない」存在であり、様々な欲望を完全に消すことは出来ない。
その意味で、あのような「悪場所」は、都市には必然のものと思う。
要は、それをどう管理するかだろう。
一方的にクリアランスすれば良いというものではない。
事実、京浜急行ガード下にいた女性たちは、北関東に散在したらしく、日本からいなくなったわけではない。

松沢成文神奈川県知事や中田宏横浜市市長は、こうしたスラム・クリアランスに賛成で、熱心に実施されているようだが、それが「都市政策」「文化施策」で意義があるとは私には残念ながら到底思えない。
これは、私の偏見だろうか。