指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

桂林の『おんな港町』

2024年01月11日 | 音楽

1989年10月に、中国の上海市で、「1989横浜工業博覧会」が開催され、横浜市の代表団の一人として、私も鈴木喜一議長に随行し、約2週間中国に行った。初めての海外旅行で、当時は東京に住んでいたので、有楽町のビルにあったセンターで最初のパスポートを取った。

当時は、まだ成田空港の警備は厳戒体制で、全団員が飛行の前日に成田空港内のホテルで一泊して、翌朝に上海に向かった。

飛行場では、例によって熱烈大歓迎で、「これか・・・」と思ったものだ。

翌日から公式行事がいろいろとあったが、約1週間で無事終了して、中国各地への視察に移った。

この頃は、文革は終わっていたが、まだ毛沢東は正しいという時代で、華国鋒時代と言われる過渡期で、まだマルクス、レーニンにならびスターリンの肖像が掲げられていた。

ただ、上海市の幹部の人の話を聞くと、すべて「文革派の悪業」だったが、その頃、旧幹部は地方に下放されていたのだから仕方ないことだろう。

さて、広東に行くと高倉健の『君よ、憤怒の河を渡れ』が大体的に公開されていて、中野良子は、この頃から大人気になっていくのだ。他には、イタリア製のアクション映画が公開されていたが、これは安いからとのことだった。

そして、桂林に行くと、飛行場には旧ソ連製の戦闘機が止まっていて、南のベトナムに向かって発進できるような姿勢になっていた。まだ、中越紛争が完全に終了してはいなかったのだ。

後に、桂林に行き、当然川下りをしたが、そこ頃は相当に水が濁っていたが、この頃はまだ非常にきれいだった。

最後の夜、桂林市は、われわれに革命的日中友好歌劇を見せてくれた。

            

題名は憶えていないが、日中友好がテーマで、中国人の医学生が、戦前に日本に来て、日本女性と恋仲になり、一人の少女が生まれる。

戦後、医師となり、中国に戻ってきて活動するが、文革になる。

知識人で日本人と結婚しているのは、反動分子だとのことで、紅衛兵に捕まり投獄される。

そのとき、娘が父と日本で旧知だった周恩来首相に電話して、父は解放されてめでたしめでたしとなる。

実に適当なミュージカルだが、このメロディーが、八代亜紀の『おんな港町』にそっくりなのだ。

なんど聞いても、「女、みなと町・・・」なのだ。

それほどに八代亜紀の曲は、当時中国でも愛好されていたのだ。

日中友好にも貢献された女性歌手のご冥福を祈りたい。

 

 


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1 コメント

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八代亜紀さん (広い世界は)
2024-01-12 15:11:53
降旗監督東宝「駅・ステーション」での大晦日に倍賞・高倉の二人にテレビから流れる唄「お酒は温めの燗で良い,肴は炙った烏賊でいい・・」八代亜紀合掌。
「君よ・・」は銀座で馬を走らせた。蹄がアスファルトと摩擦して火を吹いていた。無茶をやる。
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