1972年の連合赤軍の浅間山荘事件から、50年だそうだ。
以前、私は、次のように書いたことがある。永田洋子についてであるが、彼女たちはこの前に逮捕されていた。その原因は、臭いだった。連合赤軍の連中は、都市にいられなくなり山に逃げた。
戦前、毛沢東らが、都市から農村に逃げた長征をまねたのだ。だが、戦前の中国と1970年代の日本では大きく違うものがあった。彼らの体臭である。逃亡して、ろくに風呂にも入らなかった彼らは、異常な悪臭を放ったそうだ。それで、駅員らに見つけられたのだ。永田と森は逮捕されて、残った連中がさらに山に逃げて、浅間山荘事件が起きた。
連合赤軍のリーダーで死刑囚だった永田洋子が死んだそうだ。65歳。彼女には、1966年の秋に一度会っている。
横須賀に米軍の原子力潜水艦が寄港することになり、その反対運動が横須賀の臨海公園で行われていた。
集会に行くと、昔から知っていた某党派の男に会った。すると彼は、彼らの機関紙を早稲田の支部に届けてくれないかと言い、数百部の新聞を渡された。8時過ぎ頃、集会はデモ行進に移って公園から出たので、私は帰ることにした。
横須賀からか電車に乗り、その新聞をパラパラと読んでいると、隣の女性から話しかけられた。
「あなた、○○派なの」
「・・・と言うわけでもないが、知り合いがいてね」
「そう、・・・」
それから、その女性は私が川崎で乗り換えるまで、当時の学生運動のある党派の内部について、極めて詳細に教えてくれた。
「何々ちゃんは良い人だけど、何々はだめ」というような言い方をした。
「へえー、このおばさんは一体なんだ」と思った。
彼女が、永田洋子だと分かったのは、連合赤軍事件が終わり、彼女らについての本が出てからであった。
当時、彼女たちは、社学同ML派というところにいたのだが、その中の大部分が関西の連中と合併することになり、「純粋ML派」と言われ、毛沢東主義者だった彼女たちは、ML派を追い出されたのである。
ごく少数の泡沫的分派となった彼らは、その後京浜安保共闘になり、さらに皮肉にも彼らを追い出したはずの関西派の中の最過激派の赤軍派と合同して連合赤軍となる。
今考えれば、実に不思議な時代だった。
永田洋子らのやったことが、間違いだったことは言うまでもない。当時、彼女は大学を出て、東神奈川にある済生会病院で薬剤師をやっていたようだ。
思い出せば、正直に言って永田洋子は、極めて不愉快な感じのおばさんだった。
永田洋子と黒田寛一が、日本の新左翼運動を壊した人間だと思う。
どちらも、中国共産党とロシア共産党という、アジア的な後進国の共産党の運動を盲従したことが最大の間違いだったと私は思う。