この言葉は、私がパシフィコ横浜にいて、ウォーマッド横浜について、当時の総務部長岡本坦氏に説明した時の言葉である。
たぶん、1989年の秋ごろのことだと思う。
その後、1989年12月25日付けで、横浜市に戻ることになる。
その時の手帳を見ると、
「ウォーマッド、残念」と書いてるので、最後までやりたかったのだと思う。
ただ、私の後任は、港湾局で同じ振興課にいて、まじめでいつも夜中まで一人でも仕事をしている、鯉渕信也君だったので、喜んで後を託して市役所に戻った。
そして、91,92ときちんとできたのは、鯉渕君の力だと思った。