猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

同調圧力に負けて?新型コロナのワクチン接種をうける

2021-02-16 23:12:33 | 新型コロナウイルス
 
いよいよ、新型コロナのワクチン接種が試験的に明日から始まる、とのことである。
 
毎年5月に私がいた大学院の研究室のメンバーが集まっていたが、去年は、新型コロナで中止した。メンバーの中で73歳の私が一番若く、80代が中心である。高齢者のワクチン接種が4月から5月にかけてであるので、今年も中止にせざるを得ないであろう。
 
全世界的に、各国政府は、集団免疫を作るため、ワクチン接種を進めている。「個」ではなく、人類という「種」の論理に立てば、それは正しいのであろう。
 
ウラジーミル・プーチンは用心深い性格だから、ロシア開発の新型コロナのワクチン接種を受けていない。しかし、ロシアは外交戦略としてロシア開発のワクチンを外国に売り出そうとしているという。
 
テレビで、新型コロナのワクチン接種は特に痛くないと言っていた。インフルエンザのワクチン接種は皮下注射である。いっぽう、新型コロナでは筋肉注射である。海外の接種の映像では、肩を露出して腕の付け根にずぶりと垂直に注射している。しかし、それほど痛くないそうである。
 
感覚神経は体の表面、皮膚や皮膚の直下に集中している。したがって、筋肉注射だからといって、皮下注射より痛いことはない、というのは納得できる。
 
私は心臓の冠動脈が石灰化して詰まってカテーテル治療をした。カテーテル治療とは管(くだ)を手首や脚の付け根から血管に突っ込み、心臓まで誘導し、そこから冠動脈に行きつき、管の中にひそめていた道具で治療するのである。私の場合は、1回目の治療ではドリルで冠動脈の石灰を粉々にし、2回目の治療ではステントが狭窄部分に置かれた。
 
カテーテル治療では、挿入部分だけに部分麻酔を行う。血管内をカテーテルが通るのは振動を通じてわかるが、感覚神経がないから痛くはないのである。
 
もちろん、痛さは、感覚神経から伝達された刺激を脳で感ずるのであって、個人差が大きい。筋肉注射だからといって、痛くないわけではない。
 
副反応(副作用)がなければ、ワクチン接種は益があって害はないということになる。東大先端研の名誉教授、児玉龍彦によると、メッセンジャーRNAを使ったファイザー製薬のワクチンは、理論的には、これまでの生ワクチン、不活性ワクチンに比べて、副反応が少ないという。私はこの「理論」というやつがわからないが、新型コロナの遺伝子のなかで、人体に無害だが抗体を作る遺伝子の部分を切り出しているからだという。理論物理を専攻した私は、「理論」ではなく、「実験結果」を信じる。
 
テレビによれば、アナフィラキシーなどの重大な副反応はないとのことである。あるいは、重大な副反応は、インフルエンザのワクチン接種より、ちょっと多めなだけ(約10倍)であるという。多くの場合は、接種後15分に重大な副反応が現れるから、接種後15分間その場に残っていて、副反応がでたら手当を行えば良いという。そして、ほとんどの場合、緊急処置をすれば、死ぬことはないという。ただし、危険のあると思われる人たちが想定でき、事前に問診が行われるという。
 
このように限定がつぎつぎと出てくると、「重大な副反応はないことはない」が、真実であろう。事前の問診がだいじである。
 
テレビによれば、ちょっとした副反応は「良薬くちに苦し」で、害より益があると、我慢するしかないという。接種した部分が痛くなるとか、頭痛がするとか、熱が出るとか、2,3日仕事にならないとかは、たいしたことのない副反応であるという。
 
きのう、NPOの同僚とワクチン接種について話し合った。子どもたちを相手にしているから、ワクチン接種が始まったら、同調圧力に負けて接種するしかないね、害より益があると信じてね、と。

朝日新聞夕刊のトップ見出し「GDP堅調」「東証3万円台」はまずい

2021-02-15 22:39:41 | 経済と政治
きょうの朝日新聞夕刊1面のトップ見出しは、「GDP堅調12.7%増」、つぎのレベルの見出しは「『GoTo』『巣ごもり』消費活発」、「東証、一時3万円台回復」である。これって、景気の見通しに誤解を与えるものではないか。



上のグラフの示すように、日本の国民総生産は、この6年間増えていないのである。「実質国民総生産」とは政府が政治的意図をもって調整して出した数値であって、信頼できない数値である。上にかかげるのはIMF(国際通貨基金)の出した、名目の国民総生産(調整されていない生の数値)で、各国の財務省がIMFに報告した数値である。ただし、2020年の値は予測値で、米国の値は新型コロナの影響が繰り込まれているが、日本の値は繰り込まれていない。

アメリカも中国も国民総生産が順当に成長してきたが、日本は停滞している。いっぽう、日本の株価は新型コロナの流行にもかかわらず、急上昇している。これは、実態経済に合わないバブルである。新型コロナ蔓延のもと、全世界的に金融緩和を進めており、実体経済の活性化に向かわず、株や金融商品や仮想通貨に投資されている。明らかに、金融緩和が株価上昇の要因である。このまま実体経済の活性化に結びつかなければ、いずれバブルの破裂に向かうであろう。

テレビの証券アナリストの話を聞くと、韓国の株バブルには手厳しいことを言っている。アメリカのヘッジファンドが、文在寅大統領の率いる左翼政権を徹底的に痛めつけるために、株バブルを起こし、破裂させ、IMF管理国家に持ち込まそうとしているのだ、そうである。私は、陰謀説を信用しないたちで、極端すぎると思っているが。

しかし、 昨年12月末現在で、日銀が、東証1部の約7%、時価にして46兆8000億円を保有しているのは厳然たる事実である。これまで最大株主だった、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の保有株を抜いたのである。単に株を買っているだけでなく、上場投資信託(ETF)を通して株を買っているのであって、手数料を証券会社に払い、株価つり上げに貢献していながら、株を買った会社の経営に口を出せないのである。

そして、日本政府の借金は国民総生産の3倍になっている。

ジャーナリストは、もう少し、元総理の安倍晋三と日銀総裁の黒田東彦の作った経済危機を率直に見つめる必要があるのではないか。昨年のおわりから、相当数のエコノミストは、政府の株価操作がやめられない状況にあると指摘している。出口戦略が見えないのである。ハッキリといわないが、いま、日本は海外のヘッジファンドに狙われているのではないか。株の大暴落がいつ来てもおかしくない状況にあるのではないか。

そうであれば、朝日新聞の夕刊が一面にこのような大きな見出しを掲げるのは、誤った印象を与え、株暴落の被害者を増やすことになると思う。

[関連ブログ]

大学入学共通テストは廃止が望ましい、英語の試験問題は公平でない

2021-02-14 23:08:00 | 教育を考える


学校教育と大学共通テストは区別して論ずるべきである。大学共通テストは学校教育に影響を与えるが、学校教育は大学共通テストから本来独立してあるべきである。多様性があってしかるべき社会で、共通テストがあること自体がおかしいのであって、大学共通テストで、高校や大学の教育が均一化されることを避けるべきである。

学校教育に関しては、誰もがこうあるべきという権利がある。そして、それらの意見が互いに戦わされ、学校教育に反映していく道筋があるのが、民主主義社会の教育のあり方だと思う。さもなければ、学校教育は、政府主導の洗脳教育の場となる。

共通テストがなぜあるのか、私にはわからない。国民の学力レベルの底上げを狙うものなのなら、問題は易しくて、かつ、大学入学と結び付けないようにすべきである。

大学入学共通テストの英語テストを批判する投稿が数日前に朝日新聞にあった。批判のポイントがどこにあるか、具体的には わからなかったので、語学嫌いの私も、テスト問題文を分析してみた。

英語のテスト問題は、パターン化、形式化している。そのため、問題のパターンになれた受験者は高得点がとれる。予備校に通うか、学校で同じパターンのテストを受けている者が有利である。

問題文は、主文のテキストと、それを補う図表と、選択で回答を選ばす質問文からなる。

問題文に出てくる英語の9割がたは基本的語彙といえる。残りの1割は、問題文を読めば、意味が推測できる。単語によっては、問題文の中に直接説明されている。わからない単語が出てきても気にせずに読む訓練を受けている者には有利である。

私は英語が嫌いだから、中学、高校を通して予習、復習したことはない。したがって、辞書を引かずに、英語圏の新聞、雑誌、論文を読む習慣がついている。ときたま、ある日突然、単語の意味をまったく誤解していたことに気づき、冷や汗をかく。

私がそうだからと言って、生徒が辞書を引かずに英文を読むことを、高校の英語教師は受け入れることができるだろうか。

辞書を引かずに英文を読めるには、その英文が何を対象に書いているか、わからないといけない。これは、受験者がどんな文化圏で育ったかに依存する。問題文を読んで感じたのは、都会生活の経験がある者やインターネットを日常的に使う者に有利にできている。たぶん、問題文の作成者の多くが、都会育ちであるからではないか。

問題文の理解には上記の不公平があるが、主文のテキストは単語も構文も易しいものからなる。図表の英語も易しく、主文の理解を助ける。

それに対し、各質問は、主文のテキストの高度の理解を求めるようにできている。すなわち、主文のテキストから、書かれていないことを推測して、注意深く回答を選択する必要がある。これは難しいのだ。ここで要求されていることは、自分の考えを育てることではなく、問題の作成者が意図する回答を選択する能力である。

この問題作成者の傲慢さは英語でだけでなく、国語のテストでも見受けられる。かつてNHKテレビで、東進ゼミの林修は、東大の先生というものは自分の本音の明示を避けて遠回しの表現をするが、その表現パターンを習得すると国語の試験問題が簡単に解けると言っていた。

こういう能力を大学入学共通テストで要求するとなると、トップの意図を忖度して行動する官僚や社員が社会で多くなる。こんなことを教育するのに、学校教師は我慢できるであろうか。

NPOで私の指導している子どもたちの多くは、神経発達症か神経症の傾向がある。彼らがこの共通テストをクリアして希望する大学に行くのは、非常に難しい。彼らは絶えず考える子どもたちで、考えずに機械的に質問を処理する子どもたちと異なる。せめて、問題の量を減らしていただけないか、と思う。

不公平にならないように気遣う問題作成者の苦労もわかるので、一番良いのは、大学入学共通テストを廃止することだと思う。

阿呆ぬかすな、「日本人はそんなに悪くない」なんぞと

2021-02-13 22:26:51 | こころ


きょうの朝日新聞に、加藤陽子が『日本人は「そんなに」悪くない』という文を寄稿していた。半藤一利を偲んでである。表題の言葉は、死ぬ直前に半藤が妻に言った言葉からくる。

 「墨子を読みなさい。
 日本人はそんなに悪くないんだよ。
 ごめんね、先に死にます。」

加藤陽子は、半藤一利の言葉に共感したから、それを表題にもってきたのだと思う。

しかし、私は、なぜ、「墨子は読みなさい」をその前に、「ごめんね、さきに死にます」をその後ろにつけて、半藤の言葉を本文で紹介したのか、加藤の意図が私にはわからない。また、表題で「そんなに」にカギかっこをつけたのかも、わからない。

私は、言葉は率直に使うべきで、意図を推定しないとわからない文章を書く人間が嫌いである。加藤は、言語理解が難しい私のような人への配慮が足りないと、いつも思う。

それでも、推測するに、加藤は、半藤が孔子より墨子を愛していることに安心したのかもしれない。また、「それほど」とカギかっこをつけたのは、単にこの言葉に注意をひきたいからかもしれない。

さて、「日本人は」という言葉に、半藤は自分を「日本人」と思っていたかどうかが気になる。それに加えて、私は「日本人」というものが何なのかわからない。「日本国の国民」なのか、「日本文化に育まれた者」なのか、「日本社会に帰属していると感じる者」なのか、わからない。あとの2つなら、「日本文化」とは何か、「日本社会」とは何か、の疑問が生じる。

半藤一利は「日本人は……」と妻に言ったのだから、半藤は自分と妻を「日本人」と思っていると思われる。それをわざわざ加藤陽子が引用し、半藤を偲ぶのだから、加藤も自分を「日本人」だと思っているのだと思われる。

私は「日本人」であることに帰属意識をもつ奴が嫌いである。半藤一利にも加藤陽子にも好意をもてない。もちろん、「日本」に帰属意識をもつ者よりもましだが。

「それほど」を加藤陽子がカギかっこをつけて強調した理由は、半藤も加藤も「日本人」は基本的に悪いと思っているからである。問題なのは、善いとか悪いとかいう前に、人間を類型化している。人間には個人差があり、「〇〇人」と類型化してはならない。また、そもそも、「善い」「悪い」に意味のあいまいさがある。

私は、人間をかってに類型化し あれこれ言うな、と半藤一利や加藤陽子に言いたい。

さて、加藤は、半藤の言葉「日本人の欠点は何かと考えると2つある、当座しのぎの根拠のない楽観性と排他的同調性の2つだと」を紹介している。

私は、「根拠のない楽観性」を特に悪いと思わない。劣等感にさいなまれないために、「うつ」にならないために、斎藤環が言うように「根拠のない楽観性」が心の支えとなる。私がカナダにいたとき、そこでの友だちが “another day, another dollar”と励ましてくれた。

「当座しのぎの」が「根拠のない楽観性」を形容していても、私は悪いこととは思わない。「楽観的」は誉め言葉である。

しかし、「排他的同調性」や「当座しのぎの排他的同調性」となると、これは対人関係の問題であり、私は「悪いこと」と思う。

この2つの「日本人の欠点」を持たない人びとがいて、「全体の帳尻」として、「日本人」はそんなに悪くないのだ、と加藤陽子は寄稿を締めくくる。

本当に加藤陽子も半藤一利もバカだ。人間を類型化して「日本人」とするから、こんなバカなことを言ってしまう。個人というものを理解していない。

戦前の天皇制・軍国主義体制を恋い慕う「建国記念の日」は認められない

2021-02-11 22:24:35 | 歴史を考える

きょうは、日本の「建国記念の日」である。法律で定められた日本の祝日である。ただし、どの日が「建国記念の日」かを法律で定められているのではなく、2月11日は1966年の政令で定められたものである。

国民の祝日に関する法律には「建国記念の日」だけが、「政令で定める日」と書かれている。政令とは、日本国憲法第73条第6号に基づいて内閣が制定する命令で、行政の発する命令の中では最も優先する。それだけで、法律が政令に優先する。

だから、自民党政権が終われば、8月15日にしても良いわけだ。8月15日は終戦記念日だが祝日ではない。私の母は日本が戦争に負けて喜んだ。もう、軍人さんが威張れない国になると。

「建国記念の日」は何の日か、法律上では「建国をしのび、国を愛する心を養う」としか、規定されていない。

「しのび」とは何か、意味不明である。「しのぶ」を辞書でひくと、①我慢する、②人目につかないように身を隠す、③恋い慕う、という意味だそうである。①と②とは、漢字で「忍ぶ」と書き、③は「偲ぶ」と書く。語源が違うのである。

どうも、「建国をしのび」は「建国を偲び」で、「建国を恋い慕う」ことであるようだ。

すると「建国」とは何か。「建国」が戦後の占領状態からの「独立」とか、国民主権が「憲法」に明記された日なら、「偲ぶ」ではなく、「建国」は率直に祝う日ではないか。

このように、「建国記念の日」はとっても変な日なのである・

これは、自民党が1957年以降、9回も2月11日を「建国記念日」に制定する法案をだしたが、国会を通らなかった。「建国記念の日」と名称を変え、「建国をしのび」と何の日か曖昧にし、法律でどの日かも決めない、いびつな形にして、1966年6月25日に「建国記念の日」を祝日にする法案を自民党が国会で通した。

国民が、2月11日を「建国記念日」とすることに、反対したのは、戦前、2月11日を「紀元節」と称し、2600年前に神武天皇が日本を建設した日として、祝っていたからである。すなわち、2月11日の紀元節が天皇制の始まりの象徴であったのである。天皇家の記念日だったのである。

いっぽう、軍国主義や天皇制に反対する人たちにとって、私の親の世代のことであるが、2月11日は忌まわしい思い出の日だったのである。私の親はふたりとも老いて死んでいるので、私が代弁しているのである。

いまでも、「建国記念の日」に反対する集会が各地で開かれているが、テレビも新聞もそれを取り上げない。

現在、神武天皇がいたかどうかさえ、疑われている。多くの歴史学者はその存在を否定している。2600年前は縄文時代である。弥生時代になって、全国的に定住がすすみ、首長が各地に生まれた。しかし、日本国という概念が生まれるためには、中央集権化が進み、外国からの侵略を意識するようになってからである。

それにまして、「建国」とは、人民が何らかの革命を起こし、契約あるいは憲法のもとに政府を形成したときの行為を指す。

だから、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とは、とても奇妙で、2月11日の「紀元節」を恋い慕う、すなわち、戦前の天皇制、軍国主義体制を復帰したいとの意味しかない。

じつは、きょう、菅義偉は、『「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ』を出している。そのメッセージはつぎで始まる。

〈「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、国民一人一人が、今日の我が国に至るまでの古(いにしえ)からの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日であります。〉

「建国をしのび」を「今日の我が国に至るまでの古(いにしえ)からの先人の努力に思いをはせ」と言い換えている。「国を愛する心を養う」には説明をさけている。

誰かが入れ知恵したのだろうが、「古からの先人の努力」と抽象的表現に替えられているが、明治からの天皇制、軍国主議体制を偲ぶ日と菅義偉は考えている。「長い歴史」という言葉が何度も使われているが、肯定的ニュアンスで使われており、「天皇制」への復帰を願う人たちに届くようなメッセージになっている。

私は、2月11日の「建国記念の日」を認めることができない。