図書館でたまたま、宇野重規の旧版の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)を見つけ、借りて読む。まだ、「はじめに」と「第1章 青年トクヴィル、アメリカに旅立つ」と「第2章 平等と不平等の理論家」までしか、読んでいない。ちょうど、本の半ばである。しかし、年をとると、読んでも読み解いたことをすぐ忘れる。この辺でいったん書評をまとめるほうが無難である。
本書は、アレクシ・ド・トクヴィルの育った環境から書き出し、彼の著書『アメリカのデモクラシー』を中心に彼の思想を紹介する。トクヴィルは貴族出身でありながら、「デモクラシー」をヨーロッパの未来と考え、政治体制の激動のなか、54年の人生を生き抜いた思想家だそうだ。
本書から最初に受けた印象は、宇野重規が自分をトクヴィルに投影しているのでは、ということである。トクヴィルが「デモクラシー」をヨーロッパの未来と考えながら、君主政政府から革命政府とエリートの道を歩き続けた姿に、宇野は、このオカシナ日本社会に抗いつつ大学に職を保持しつづける自分を重ねたのではと思った。
トクヴィルの35年後にドイツに生まれたフリードリヒ・ニーチェは、「デモクラシー」の足音に恐れおののいていた。彼は、牧師の息子でありながら、キリスト教徒と民主主義者を家畜化した大衆だ、慈悲に頼る弱者だ、と、ののしった。ニーチェは、大衆の出現に恐れていたのである。そして、自分はポーランド貴族の末裔だと自称するトンデモナイ男である。
トクヴィルは「デモクラシー」を「諸条件の平等化」という。「諸条件の平等化」とは、フランス語でどういうのか知らないが、生活のあらゆる場で、平等が当然だと思うようになることらしい。そして、この「平等化」は時代の趨勢で、神の摂理だという。
トクヴィルが、9カ月のアメリカ旅行で驚いたことは、人々が自分の利益を求めて動いているだけなのに、共和政のアメリカ社会が機能していることだったという。
この驚きを、宇野はつぎのように説明する。
〈アメリカはモンテスキューが説いたような意味での共和政とは異なる、まったく新しい共和政である。モンテスキューはかつて、共和政を可能とするのは市民の徳と節倹であるとした。この場合の徳とは、自らの利益を公共の利益のために犠牲にする精神である。しかしながら、アメリカにおいて見られるのは、自己利益を追求する利己的な精神である。〉
〈むしろ、アメリカの実験の大きな成果は、自己利益を追求する中産階級が、にもかかわらず、十分に共和政を統治する能力をもつということであり、いいかえれば、徳が必ずしも共和政を動かす唯一の原動力というわけではないということを実証して見せたことである。〉
この「徳」と「節倹」は、古代ギリシアのプラトンやローマ共和政のカトーにさかのぼる。「徳」とは「優秀さ」のことで、「節倹」とは「節制」とか「質実剛健」のことである。
トクヴィルはそんなものがいらない、自己利益を追求する利己的な精神で十分だと思ったとのことである。他人を自分と同等と思い、自分が損をしないぞ、と思うことが結果として社会の平等化を実現するという。
「神の手がなくても市場は機能する」という考えと同じく、これは仮説である。本当かなとも思う。「中産階級」という言葉も気になる。これはブルジョアジー賛歌でないか。
タイラー・コーエンは、『大格差』(NTT出版)のなかで、つぎのように言っている。
〈人々が生々しい怒りをいだくのは、大幅な昇給を得た同僚だったり、自分より20%収入の多い義弟だったりする。要するに、同じ高校に通ったような人たちが高い収入を得ていると、我慢ならないのだ。〉
すなわち、自然のままの平等化では、自分と同じ境遇の出の人が自分と同じ生活をしろという、同調圧力にしかならないのだ。
じつは、エーリッヒ・フロムも『自由からの逃走』のなかで、「利己心という合理的力(rational forces of self-interest)」という言葉を肯定的な意味で使っている。フロムもトクヴィルも利己心(self-interest)こそ、個人の理性の源と考えているようである。これにも、手放しで同意できるものでない。
私の考えでは、人間は時代が変わっても愚かなのである。