猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

安倍晋三とその信者の研究――その6、国歌、国旗

2019-07-27 22:45:18 | 安倍晋三批判

安倍晋三は、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)の「第3章 ナショナリズムとはなにか」で、2004年のアテネオリンピックで優勝した柴田亜衣選手が「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうダメでした」と大粒の涙を落した、と紹介している。

「君が代」や「日の丸」で涙を流すか、どうかは人に依存する。

犬や猫と同じく、人間は記憶によって行動する。「君が代」や「日の丸」が、情動と結びついた何かのエピソードの記憶を思い出し、情動が吹き出たのであろう。柴田亜衣選手は苦しかった練習を思い出したのかもしれない。

このような情動的反応は、ベルの音に反応してよだれを垂らす「パブロフの犬」と同じだ。どういう情動反応を示すかは、基本的に、個人的なもので、個人の自由だ。

しかし、安倍晋三が「君が代」や「日の丸」で涙を流すこととナショナリズムを結びつけることには、危険なものを感じずにはいられない。

「君が代」を聞き、「日の丸」を見たとき、その瞬間に思考停止に陥って、「日本のために殉ずる」という熱い思いに涙するように、若者たちが仕込まれたら、どうなるだろうか。高村光太郎のように、「日本あやうし」「私の耳は祖先の声でみたされ」「個としての存在から国家主義精神と一体となる」のではないか。

私や妻は、「君が代」や「日の丸」で涙を流すことはない。

イタリアやフランスやロシアの三色旗のほうが好きだし、アメリカの星条旗も悪くないと思う。「君が代」は ついていけない。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」やソビエトの昔の国歌「インターナショナル」のほうが良い。

そっちの方が華やかだから良いと個人的に思うだけで、歌や旗を国家と結びつけるのは反対である。情動的なものを、国家権力の遂行の道具をしてはいけない。

そのイケナイことをしているのが、自民党政府であり、安倍晋三である。

2001年9月11日、アルカイダがニューヨークのワールド・トレード・センターを攻撃した。そのとき、一夜にして、いままで隠れていた右翼の若者が星条旗を持ち道路を行進はじめた。星条旗と国歌のおかげで、再選しないだろうと言われていた共和党のジョージ・W・ブッシュが2004年の大統領選で再び選ばれた。

そしてブッシュは、アルカイダの拠点アフガニスタン国を占拠しただけでなく、それと無関係のイラク国も占拠し、政権をひっくり返した。武力による内政干渉である。これが、現在の中東の不安定化を招いている。

星条旗が道路にあふれる光景に、当時、わたしも、わたしのアメリカの友人たちも、ナショナリズムという人間の愚かさに、嘆かずにいられなかった。

(つづく)

戦争で心を病むのは、殺されるという恐怖からだけでない

2019-07-27 17:48:32 | 戦争を考える


以下は、ちょうど4年前のきょう、ほかで書いたブログだ。

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戦争とは、国家間の紛争に武力を使用することである。結果として、国民に人殺しを強要する。

今日も、日本のテレビでは、今、安保法制が通ると、自衛隊員が殺されるリスクが高まると言っているが、海外での武器使用を認めるのだから、人を殺すリスクも高まるのである。

74年以上前に、私の父が中国戦線に駆り出され、敗戦後1年して負傷兵として戻ってきた。私の母は、父が人間が変わって帰って来たと、繰り返し、繰り返し、私に話した。子供の私には、それが何であるかわからなかったが、米軍のアフガニスタン侵攻やイラン侵攻の後、多数の兵が心を病んで帰還したのを知って、気づいた。

殺されるという恐怖だけでなく、罪もない人間を殺してしまう恐怖のため、人は心を病んでしまう。

アフガニスタンに「平和維持軍」として駐留したスウェーデン軍のドキュメンタリー映画を見て、特に強く、そう思った。他国に駐留する兵隊にとって、誰が敵で、誰が味方かはわからない。殺さなければ、自分が殺される。しかし、本当に相手が自分を殺そうとしているのかは、わからない。わからないなかで、殺してよいのか。私の父も、中国戦線で、何か、住民の自分を見る目の厳しさを感じ、殺してはいけない、殺さなければならない、の葛藤に4年も一人で苦しんだと思う。

他国で武器が使用できるとは、明らかに、自衛権の範囲を超えている。武器をもって他国に行かなければ、私の父のように心を病む必要はない。

津久井やまゆり園の46人殺傷事件から3年、心に広がる波紋

2019-07-26 21:23:55 | 津久井やまゆり園殺傷事件
 
きょうで、2016年7月26日の津久井やまゆり園の46人殺傷事件から、3年になる。裁判を行うという方針は2年以上前に司法関係者で合意されたのに、いまだに裁判が始まっていない。裁判は来年の1月だという。
 
6日前の立岩真也の朝日新聞の『《ひもとく》やまゆり園事件から3年 「生きる価値」の大切さ問う』がつくった小さな波紋が私の心に広がる。
 
人間の身勝手さ、わがままに もっと怒らないといけない。立岩の言うように、私たちは腰が「引けている」。被告だけでなく、施設に自分の子どもを預けたまま会いに来ない親に、予告があっても何もできなかった施設長に、にせの安全をテレビで広告していたセキュリティ会社ALSOKに、問題の本質に立ち入らないメディアに、福祉ビジネスに、安倍晋三に、社会に、怒らないといけない、という気持ちが沸き上がる。
 
単に、殺された障害者が かわいそうだけでは すまされない。
 
自分が動けなくなったとき、この子の介護を誰に託そうか、と悩む親の気持ちはわかる。子どものほうも親が死んだら自分が生きていけるのか、の不安のなかに暮らしている。親も子も悩むものである。
 
ところが、子どもが暴力をふるうから、と言って施設に預ける親がいるのに、びっくりした。私がもっていない自分の家をもっている。ピアノをもっている。海外旅行に行く。家を、グループホームとして提供したらどうなんだ。
 
みんなは、利用者が施設で外からカギのかかる部屋に閉じ込められていたのを知っているのか。施設の40歳になる大人の利用者には自由がないんだ。
 
どんなに立派でも大きな施設をつくっても仕方がないのだ。小さくて疑似家庭のようなのが まだ ましなのだ。
 
ALSOKのセキュリティがこけおどしでなければ、すぐに、警察が駆け付ければ、殺されたものの数は少なかっただろう。いなかったかもしれない。
 
精神科閉鎖病棟は、患者の人権を守るため、内部から外部への通報ができる。障害者施設でも、内部から外部への通報ができる必要があるのではないか。施設利用者は携帯をもっていたのか。あるいは、部屋に緊急連絡のボタンがあったのか。ALSOKの監視カメラは外だけで、内部になかったという。閉鎖施設には虐待が一般に起きる。監視カメラは内部にこそ取り付けるべきではないか。
 
施設の運営監視に、利用者の親の代表が参加していなかったのか。そもそも、利用者の親の会があったのか、なかったのか。
 
被告は安倍晋三の国家主義思想に影響されたことはないか。安倍晋三は、『美しい国へ』(文春文庫)で、若者が「享楽的」「刹那的」だと非難する。「大義に準ずる」ことを求める。「批判されても信念にもとづいて行動する」ことを求める。まさに、被告は、予告をして、確固とした信念をもって46人を殺傷した。強い者のために、弱い者を憎み殺した。障害者に声をかけて、その反応で殺すべきか否かを判定したという。まさに、国家主義思想の信者ではないか。
 
裁判が始まるか始まらないに かかわらず、裁判が裁き切れないものを、私たち自身で裁くべきだ、という声が心のなかに起きる。

ETV特集『親亡きあと 我が子は…』への率直な感想

2019-07-25 21:51:26 | こころの病(やまい)

7月20日放送、7月25日再放送のETV特集『親亡きあと 我が子は…~知的・精神障害者 家族の願い~』は、私たち親にとって とても切実な問題を扱っている。

それなのに、どうも、視聴者の反響はイマイチで、とても残念である。単に、可哀そう、差別はいけない、で終わってしまいそうである。

過去の素材も使い、もう一度、編集しなおし、再挑戦してほしい。

私が思うに、内容がありすぎ、少なくとも、2つに分けた方がよいのではないか。タイトルに「知的・精神障害」とあるが、「知的・発達障害」と「精神的障害」とに分けた方がよいのではないか。抱えている課題が大きく違う。

もうひとつは、番組は、はっきりと社会や政府を告発すべきではないか。「障害者」とは「社会の支援を必要とする者」を意味する法律用語である。法律で支援体制がどのようになっているのか、実態はどうなのか、親たちはちゃんと利用しているのか、うまく機能しないのはなぜか、番組制作者は、親や支援者や識者の声をインタビューして視聴者に届けてほしい。

現在、障害者への福祉の実施主体は地方自治体にまかされており、地域格差も大きい。その上に、現代の支援は、利用者が制度に気づいて権利を主張しないと、放って置かれるようになっている。政府が多額の福祉予算を使っても、必要としている人たちに届かず、途中の福祉ビジネスが太るだけにも、私には見える。

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年齢に応じた知的精神的発達を見せない子どもを「神経発達症群」という。「知的能力障害」や「コミュニケーション症群」や「自閉スペクトラム症」はこの中に含まれる。重い知的能力障害では、自分で排泄できない、自分で食べることができないなどの問題を抱えることもある。

私は、自己を意識でき、他人とコミュニケーションができるように する教育がだいじだと思う。施設やグループホームで楽しく過ごすためにも、虐待されないためにも、自分があって、コミュニケーションできることがだいじだ。

コミュニケーションは音声による日本語でなくてもよい。ボディランゲージでもよいし、書くことでも良い。自分があって、自分を表現できることである。

東田直樹の『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』、『続・自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール)を読んだとき、彼が、どうして、自分のことを、自分の心と体のことを、こんなにわかるのだろうか、私はおどろいた。言葉が出てこない症状だから、自閉症というより、現在の診断名では、コミュニケーション症群にはいるだろう。あるいは、ワーキングメモリーが少なく、知的能力障害かもしれない。しかし、すばやく脳がはたらかなくても、自分の心の動きを観察し、検討し、自分の意見をまとめることができるのだ。東田直樹は哲学者であり、詩人である。彼の教育に関わった人たちに敬意を表する。

まず、神経発達症群の子どもたちには質の高い教育がだいじなのだ。

教育は学校だけではない。多くの都市では「放課後デイサービス」が使える。ひとりの子どもを中心にかかわる広い意味での教育者たちの連携がだいじであるが、親が要求しないと、そのような「個別のケース会議」は開かれない。

つぎに、神経発達症群の子どもたちは、養護学校高等部を終えると急に社会人扱いにされ、社会の支援が見えなくなる。養護学校が世話してくれる作業所が唯一の社会とのつながりになりがちだ。

このとき、横浜市にソーシャルワーカーという職種があり、支援機関を紹介したりして、大人になった子どもの人生設計を助けてくれる。現在、ソーシャルワーカーを含め福祉事業はビジネス企業体である。よく言えば、利用者が福祉サービス企業を自由に選択でき、結果は自己責任である。地方自治体はこれらを監督する責任があるが、現実はとても難しいことで、形式的、あるいは、言い訳の証拠作りになりがちだ。

すなわち、支援の利用者は、権利意識をもたないと、支援の網から抜け落ちる。

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神経発達症以外の精神疾患(mental disorders)では、いったん年齢相応に発達するが、なにかのきっかけで、発症する。子どもが発症することもある。

番組では、ある患者に、テロップに「統合失調症」で「双極性障害」とでたが、そういうことはありえない。問題は、精神疾患の診断では、誤診が生じやすい。現在の精神医学はその程度のものだということを知っている必要がある。

神経発達症群の子どもたちの親に比べ、精神疾患患者の親は孤立しやすい。番組での、統合失調症の娘を殺した父親も、そういう孤立した父親だと思う。殺してしまった娘は生き返ることはない。だから、家で慰霊に向かって泣いているよりも、精神疾患患者の親たちを組織化して、孤立させない活動に、自分の残りの人生をかけるべきだ。

精神疾患の患者を病院に閉じ込めるとどうしても虐待が生じやすい。閉じ込めると、患者と医療従事者のあいだに、支配される者と支配する者との人間関係が生じる。日本だけでなく、全世界で知られていることだ。

そのため、入院ではなく、患者は自宅から病院に通うというあり方を、全世界で取っている。入院はやむをえない理由があり、本人が同意してであり、短期でなければならない。ところが、親が自分の子を見捨てることもあり、自分の住み家と自分の仲間をもつ必要が生じる。そのために、グループホームが必要なのである。

精神疾患は再発することがあるが、制御可能な病気である。家族関係があれば、それを維持した方がよい。孤独でないほうが、再発を防げる。

グループホームはその代替機構であり、管理者がいて、人間関係の維持構築にかかわるほうが望ましい。中村かれんの『クレイジー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ』(医学書院)を読んで感動したが、「べてるの家」の成功は、ソーシャルワーカーの向谷地生良と、精神科医の川村敏明とがいたからと思う。ユートピアは個人の努力でつくられ、個人の死で崩壊するものと思う。

神経発達症群のヒトも、そのほかの精神疾患のヒトも、人である。親としては、自分の子どもに「人としての敬意」を払ってほしい。そのためには、親は権利意識をもって、連帯しないといけない。

吉本興業と反社会勢力と政権との結びつき

2019-07-24 22:55:46 | 社会時評


7月22日、吉本興業の岡本社長は会見で「タレント社員を含めて吉本は全員が家族、ファミリーであると考えています」と語ったとき、これが、6000人の芸人を抱える企業の社長の弁明か、とびっくりしたが、話はそれで終わらないようだ。

2日後のフジテレビの『グッディ』で、カンニング竹山の話を聞いていると、吉本興業が政府と結びついてビジネスをしていく上で、吉本興業の芸人が反社会勢力の宴会に出てお金をもらったことが、とても、まずく、もみ消す必要があったということらしい。

今年の4月、安倍晋三が、吉本興業の大阪お笑い劇場「なんばグランド花月」の舞台に出たので、なにか背景にあるのだろう、と思っていたが、すでに、吉本興業は、安倍晋三の利益分配のしくみに加わっていたようだ。

『グッディ』では、カンニング竹山が「クールジャパン機構の問題ですよね、それで最大100億ですよね、22億の金が動いてますよね」と発言した。

じつは、これらは、日刊ゲンダイやアゴラで、すでに報道されていた。

2013年に安倍政権が設立した官民ファンド「クールジャパン機構」が、2014年と2018年に吉本興業の事業に22億円 出資した。これから計画されている「教育コンテンツ等を国内外に発信する国産プラットフォーム事業」には100億円 出資する。NTTとの共同事業なので最大100億円ということだ。

カーニング竹山は「辺野古の移転跡地の問題」と「大阪万博の問題」にも言及した。

「辺野古の移転跡地の問題」とは、米軍基地が沖縄の辺野古から移転した跡地利用の利権の話だ。吉本興業の大崎洋会長が「普天間跡地利用有識者懇談会」のメンバーで、跡地に自分の施設をつくるという話だ。

メディアがこれらの話を調べていけば、森友学園問題や加計学園問題と同じように、安倍晋三の発する甘い腐敗の匂いに集まった利権集団の実態が明るみにでるだろう。ぜひ、そうして欲しい。