猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

安倍晋三とその信者の研究――その5、正気でない人たち

2019-07-23 21:24:31 | 安倍晋三批判

安倍晋三の率いる自民党は、今回の50%弱の投票率の参院選で、比例では、そのうちの35%しか票が取れていない。すなわち、有権者の17.5%しか自民党を支持していないのだ。しかも、自民党支持者がすべて安倍晋三を支持しているわけではない。安倍晋三の信者は有権者の10%もないだろう。

日本は完全比例代表制ではないので、議席では相対多数派に有利になるが、それでも参院の過半数に達していない。自民党は公明党のおかげで政権の座にいるのだ。
 
それなのに、それなのに、あたかも勝利したかのように、安倍晋三は、偉そうに、任期中の憲法改正を訴え、韓国への輸出規制を強化すると言っている。きょうの朝日新聞に、日本総研の藻谷浩介は『目先の「経済成長」を訴え 抱え込むリスク』と安倍政権の経済政策の危険性を指摘していた。資本主義経済の法則では、景気の波が避けられないはずなのに、景気浮揚だとして、6年間、政府系ファンドや日銀を使って日本株を買い占めている。
 
安倍晋三は正気でない。正気でない男のまわりには、正気でない人たちが、腐った甘い香りに誘われて、集まってくる。早く、日本の政治舞台から、正気でない男を排除しないと、取り返しのつかない人災が日本に、世界にやってくる。

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では、安倍晋三の正気でない態度や政策はどこからくるのか。 

安倍晋三の『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)にもとづき、彼が「国家主義」に酔いしれている、としか言いようがないことを、私は指摘した。彼は、自分をリベラルでない、保守だ、と言う。リベラルは、個人ひとりひとりを尊重する。彼には、個人の尊重という概念が欠落している。
 
保守といっても、彼は王党派ではない。天皇を操り人形としかみていない。平成天皇を威厳がないと茶化す。彼は、自分を国家と同一視して、「国家のために」「国民のために」と酔いしれているだけだ。
 
第6章の具体的な年金問題では「国民」とは、利益が相反する集団の集まりだ、という事実が あらわになり、急に話があいまいになる。
  
第1章で安倍晋三は「この国に生まれて育ったのだから、わたしは、この国に自信をもって生きていきたい」と書く。本来は、「わたしは、この国を良くしていきたい」というべきところである。「国に自信をもつ」という表現がおかしいのだ。
 
この変な発想が、本書では何度も繰り返す。
 
第3章では、自信をもつには、どこかに「帰属」するということになる。私は、自分に自信をもつことが、けっして、帰属先をもつことであってはならない、と考える。
 
なぜなら、帰属先で自分に自信を持つには、帰属先が強くないといけないからだ。安倍晋三は野党に強い態度をとる。野党をぼろくそに言う。外交では、米国に強く出られないから、代わりに、韓国に強い態度をとる。韓国政府をぼろくそに言う。

これは、90年前、アドルフ・ヒトラーが抱えたのと同じ問題である。

安倍晋三の思考法では、他国に経済戦争をしかけて、最終的には、経済混乱で自滅するしかない。
 
冷静に考えれば、「帰属」が必要になるのは、「自信」のためではなく、「安心感」のためなのだ。たとえば、仕事をうしなったときに、政府は何をしてくれるのか、障害や老いで生活に支障が生じたとき、政府が何をしてくれるのか、そういう問題なのだ。
 
第7章の「教育の再生」でも、「国に対して誇りをもっているか」という問いに、「もっている」と答えた日本の高校生が50.9%しかいないことを安倍晋三が危惧している。
 
わたしから見れば、こんなバカな問いに50%も「もっている」と答えたことのほうを危惧する。すなわち、「国に対する誇り」の「国」とは、何を考えての答えであるかである。
 
「国」とは、「政府」なのか、「社会制度」なのか、「社会の政治意識」なのか、「日本の歴史」なのか。

「モリカケ問題」を起こす政府に誇りをもてとは無理である。投票率が50%を割り込む有権者に誇りをもてとは無理である。腐りきっているのが安倍政権である。日本の歴史に誇りをもとうとするから、歴史の書き換え、偽造が必要と思い込んでしまう。歴史は、人間の試行錯誤の跡であるから、偽造してしまえば、教訓や未来への指針を得られなくなる。
 
それなのに、安倍晋三は、それを教育のせいにし、「学力の低下」よりも、「モラルの低下」を心配している。「学力」とは何かの問題もあるが、「モラルの低下」とは何かを問題視しないといけない。
 
安倍晋三は「享楽主義」「刹那的」を「モラルの低下」と言っているのだ。彼の理想は、第3章にあきらかにされているように、「大義に殉じること」である。「国家主義」に共鳴し殉じるための教育をしろと言っているのだ。
 
本書によれば、「国に対して誇りをもっているか」という問いに、中国の高校生の79.4%が「もっている」と答える。こっちのほうが問題ではないか。
 
「自信」とか「誇り」とかは、自分にたいしてもつべきである。

(つづく)

安倍晋三とその信者の研究――その4、天皇制

2019-07-22 22:17:14 | 安倍晋三批判

安倍晋三は、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)の「第3章 ナショナリズムとはなにか」で天皇制について自分の考えを述べている。これがわかりにくい。

最初に、現行憲法の「象徴天皇」は、敗戦後のGHQ(占領軍総司令部)の押し付けだと書いている。

《(日本)政府は、「日本は歴史はじまって以来、天皇によって統治されてきたので、いまさら共和国にするとか大統領を元首にするとかいう案は国民が許さない」として、天皇が統治権を総攬・行使するいう明治憲法の基本を引き継ごうとした。》

《両者の間には激しい攻防があったが、結局「GHQ案をのまないと天皇制そのものが存続できなくなる」という危機感から、象徴天皇制を受け入れることにしたのであった。》

ところが、安倍晋三自身は、この節に、「天皇は歴史上ずっと「象徴」だった」という見出しをつけている。そして、この節のおわりに、つぎのように書く。

《天皇は「象徴天皇」になる前から日本国の象徴だったのだ。》

この「象徴天皇」に関しては、安倍晋三は、合理的に考えているようだ。天皇は国民統治のための「操り人形」だ、という考えのようである。これは、明治維新において、下層公家の岩倉具視が、天皇を利用すべき道具とみなしていたのと同じである。

安倍晋三は、国民統治の手段としての「象徴天皇」は威厳が大事だという立場である。

保守系ジャーナリストの伊藤智永は、『月刊日本』2016年12月号に、つぎのエピソードを書いている。

《ある有力政治家が首相官邸で安倍首相に退位に反対を進言したら、安倍氏は執務室のカーペットにひざをついて「こんな格好までしてね」と応じた》

すなわち、安倍晋三は平成天皇をちゃかしたのである。昭和天皇のように、国民との距離を保ち威厳を見せるのが良いと考えていたのである。

安倍晋三の考える天皇の役割は、つぎの言葉に端的に示される。

《ほとんど混乱なく終戦の手続きが進められたことも大きかった。そしてそれは、国民の精神的な安定に大きく寄与してきた。》

この「それは」は、「象徴天皇」をさす。安倍晋三にとっては、単なる神輿だから余計なことをしてはいけないのだ。天皇は国民のために祈っていれば良いのだ。

《そうした天皇の、日本国の象徴としての性格は、今も(昔と)基本的に変わっていない。国家国民の安寧を祈り、五穀豊穣を祈る――皇室には数多くの祭祀があり、肉体的に相当な負担だが、今上陛下はほとんどご自分でおつとめになっていると聞く。》

安倍晋三信者は、本当に、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』を読んだのだろうか。国家主義者とは王党派ではないのだ。

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では、天皇は、本当に、古代から「象徴」であったか。

まず、国民のために祈るのは天皇の仕事ではない。祈るのはシャーマン(巫女)の仕事だ。仏教の伝来とともに、国のために祈るのは、僧侶の仕事となる。

現在、天皇が行う祭祀は、いまから約140年前の明治時代に創作されたものである。それは、明治政府が「神仏分離」を行ったからだ。天皇を「神」かつ「神主」としたのである。

もともとの天皇の仕事は、軍事であり、裁判である。古代には、自ら軍隊を指揮し、武力で天皇にのし上がっている。

奈良時代、平安時代になると、貴族の力が強くなり、操り人形のようになるが、それでも、実権をもたない自分の存在が嫌で、「上皇」となり、権力を握ろうとした。

もっとも極端な例は、鎌倉幕府の討伐を命じた後醍醐天皇で、中国の皇帝の冠をかぶり、密教の法具を手にもった肖像画を書かせている。

天皇もただの人間である。たとえ操り人形として育てられようが、周りが威厳をもたせようと特別の人間であるかのように育てれば、図に乗って、自分はただの人間だと思わず、権力を握りたいと思ってしまう。

昭和天皇だって、日本帝国軍隊の総帥として、冠を被り、馬にまたがっておれば、勘違いをする。昭和11年2月26日に、陸軍将校は天皇の親政を求めて反乱を起こした。ところが、昭和天皇に、反乱将校の意図が伝わらず、激怒して、処刑してしまった。

昭和天皇は、自分は、特別の人間と考えていたのである。

威厳のある操り人形の「象徴天皇」とは無理な要求である。本人も周りの人間も国民も勘違いしてしまう。

思うに、天皇制は廃止するのが一番良い選択である。

れいわ新撰組の山本太郎には、天皇制廃止を政策に取り上げて欲しい。

安倍晋三とその信者の研究――その3、保守、安保、改憲

2019-07-21 22:55:34 | 安倍晋三批判


安倍晋三は、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)のなかで、まず、リベラルを攻撃し、ついで、革新、進歩的知識人を攻撃する。そして、国のことを熱く想っている祖父の岸信介、大叔父の佐藤栄作、父の安倍晋太郎がいわれない迫害を受けていると書く。

考えてみれば、安倍晋三は、岸信介、佐藤栄作、安倍晋太郎という華麗な政治家一族の一員であるから、被害妄想をもつ必要がない。にもかかわらず、あたかも世の中にいじめられているかのように書く。

《「お前は保守的だ」といえば、それは体制派のことであり、「どうしようもない奴」だとか「単純だ」というのと、ほぼ同じような意味に使われていた》
《小さなころから、祖父が「保守反動の権化」だとか「政界の黒幕」とか呼ばれていたのをしっていたし、「お前のじいさんはA級戦犯の容疑者じゃないか」といわれることもあった》

私はそれって本当のことではないか、と思う。安倍晋三は「どうしようもない奴」だと思うし、祖父の岸信介は「保守反動の権化」だし「A級戦犯の容疑者」である。岸信介はA級戦犯として死刑にすべきだと思っている。

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大正デモクラシーの反動で、昭和のはじめ、日本は右傾化した。

大正デモクラシーは、日本にリベラルの風を吹かせた。リベラルとは、リバティ(liberty)自由を語源としてもち、人のひとりひとりの自由を尊重するものである。そして、大正デモクラシーは、「封建的人間関係」を否定するものとして、働いた。

私の家は地方の一商店であったが、大正生まれの母は、母の義父(舅)も義母(姑)も夫も子どもたち(私と兄弟)も、名前に「さん」をつけて呼んでいた。たとえば、母は、義父駒造を「駒造さん」と呼んだ。母も母の実家も昭和の太平洋戦争に反対であった。

「封建的人間関係」とは、身分制であり、家父長制であり、男尊女卑である。「封建的人間関係」の維持を図るのが保守である。

昭和になって、国家主義の嵐が吹いた。官尊民卑は、天皇制というウソによって生じたものだ。ここでウソといったのは、安倍晋三自身が天皇は昔から象徴であった、すなわち、権力者の操り人形である、と言うのに合わせただけである。田舎で商売していた私の父は、赤紙で戦地に連れていかれ、「上官の命令は天皇の命令だと思え」と言われて、毎日殴られていた。

昭和20年8月15日、母は敗戦の報を聞いて、日本が戦争に負けて、軍人が威張らない世の中がくると喜んだ。

反動とは、ばねを押せば縮むが、手を離せば元に戻ることをいう。デモクラシー、リベラルで封建的人間関係をなくそうとしたが、油断すると跳ね返り、商人、農民、労働者の上に、官僚、軍人が威張りはじめるのである。

昭和の前半について、安倍晋三はつぎのように書く。

《たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和17、8年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。》

「マスコミを含め民意の多く」というが、当時の政府は反対する声を暴力で抑圧していたわけであり、「新聞の活字」からは民意は計れない。また、民意の多くが、たとえ、当時の政府を支持しようと、それは政府の政策を正当化するわけではない。

私の母と実家だけでなく、戦争に反対する人がおり、戦争で人を殺すことに逆らった。キリスト教徒が人を殺すことを拒否したことが知られているが、母と実家は日蓮宗であった。

安倍晋三は

《自分なりに熟慮した結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし》

というが、それは、革新の言い分でもある。

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安倍晋三は、

《安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約》

というが、安保条約は軍事同盟の側面があり、アメリカとそんなものを結ぶ必要がない、というのが、安保反対派の言い分である。しかも、安保反対のデモが起きたのは、自民党が国会内の議論を打ち切り、強行採決したからだ。反対の意思表示がデモでしか表現できなくなったのである。

安保条約第4条は次の通りである。

「締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。」

ここの「極東における国際の平和及び安全に対する脅威」とは、中国や北朝鮮のことを指す。アメリカは、日本に、中国や北朝鮮とたたかうための協力要請ができるということだ。

安保条約第5条は次の通りである。

「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。(以下略)」

第4条は「脅威」の場合に「協議」すると言い、第5条は「攻撃」の場合は「行動」すると言っている。

第5条で注意しなければいけないのは、日本も自動的に行動の義務を負う。行動の範囲の制約は「憲法」の規定だけだ。決して、アメリカが一方的に日本を守る条約ではないのだ。

安倍晋三はまた次のように書く。

《片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていた》

たしかに、第4条、第5条は対等にちかい形になっている。しかし、そのため、極東の安全のため、アメリカは日本に戦争の協力要請できるのだ。肝心の日本国内の米軍基地はそのまま、固定化されているし、基地内にたてこもった米軍人には日本側は手出しができない。

私が学生の頃、1960年代後半は、「極東の安全」が「アジアの安全」に拡大され、日本の米軍基地がベトナム戦争の後方基地になっていた。日本で爆撃機の整備が行われ、負傷兵が日本に運ばれてきた。

しかし、根本は、米軍の基地があることにNo! と言えば良いのだ。自民党議員の石原慎太郎は1989年に『「NO」と言える日本』(光文社)を出版し、No! と言えない理由があることを認めた。

なぜ、自民党はNo! と言えないのか。経済的理由である。財界は、アメリカのおかげで日本が経済成長できると考えた。実際、朝鮮戦争で日本の経済は潤った。安い製品をアメリカに輸出しても、日本が対米従属している限り、大目に見られるだろうと考えたわけだ。

いっぽう、石原慎太郎は、日本製品が優秀なのだから、アメリカに遠慮しなくて、いやなことにはNo! と言えば良いと考えた。

現在の米中経済摩擦とおなじことが、当時起きたわけだ。

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では、安倍晋三は、なぜ、改憲を主張するのか。現在の憲法のどこそこが悪いというのではなく、「自主憲法制定」自体が自由党と日本民主党を合併して自民党を作った目的であると書く。

安倍晋三は、さらに、つぎのようにも書く。

《憲法草案の起草にあたった人たちが理想主義的な情熱を抱いていたのは事実だが、連合軍の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった。》
《国の骨格は、日本国民自らの手で、白地からつくりださなければならない。そうしてこそはじめて、真の独立が回復できる。》

すなわち、「改憲」の本当の目的は、日本を「列強」にすることである。

何年か前、ドイツの駐日大使がBSフジのプライムニュースに招待された。そこで、そこで、キャスターの反町が「ドイツは大国ですね」と言ったら、大使は「大国になることを目指していません。人口からいって中の国でよいのです」といった。

なぜ、日本が「列強」になる必要があるのか。日本が他国に暴力をふるう必要があるのか。そんな必要はない。

安倍晋三は、改憲に力を入れないから、日本がおかしくなっていると書く。

《損得が価値判断の重要な基準となり、損得を超える価値、たとえば家族の絆や、生まれ育った地域の愛着、国に対する想いが、軽視されるようになってしまったのである。》

これって、「封建的人間関係」を復活させたいということではないか。まさに安倍晋三は「保守反動の権化」と言える。

安倍晋三の信者が、これに共鳴できるとは、「国家主義的世界観」をはじめからもっているからではないか。

日本語に敬語があり、尊敬語、謙譲語を使うよう学校で指導していることは大きな問題である。また、売り子と買い手は対等であるのに、最近、スーパーの店員が両手を下腹にそろえ、ありがとうごさいますとお辞儀する。これは、異常な風景である。そんなことは、私の子ども時代になかった。小商店の子どもが言うのだから、本当である。

(つづく)

立岩真也の小論と石川健治の書評、朝日新聞の読書面

2019-07-20 21:17:51 | 思想


きょう、7月20日の朝日新聞の読書面はひさしぶりに硬質な書評であふれた。ここでは、そのなかで、立岩真也の小論と石川健治の書評を取り上げる。

立岩真也は《ひもとく》の欄で『やまゆり園事件から3年 「生きる価値」の大切さ問う』というタイトルで、『妄信』(朝日新聞出版)と『開けられたパンドラの箱』(創出版)とが「(腰が)引けている」と批判し、『生きている!殺すな』(山吹書店)を薦める。

立岩の文章は私にはわかりにくい。

解釈するに、「(腰が)引けている」とは、「生きてよい人/死ぬべき人を分けるのはなぜか言ってみろと詰問」しなかったことをさしているのだ。やまゆり園事件の被告は「ある人たちを生かしていくと社会はやっていけない」と思っていると、立岩は推量する。もうひとつの立岩の疑念は、重い障害者には生きていて楽しいことはないのだ、と、これらの本の書き手が心の奥で思っているからではないか、のようだ。楽しくあろうが、なかろうが、人は生きていく権利があるのだ。

私は、「やまゆり園事件」を頭のおかしい被告の犯行と考えないことに賛成だし、他人が人の生死を決めていけない、と思うし、人の生は、楽しいことがなくても、生きていく価値がある、と思う。

石川健治の書評は、さらに、わかりにくい。彼の場合は教養が吹き出てコントロールがきかないからだ。もっと、書くスペースを彼にあげなければ、気の毒である。

石川は、中村稔の『高村光太郎の戦後』(青土社)を取り上る。高村は、智恵子抄で有名なように、智恵子との官能的愛を歌い上げた詩人である。が、真珠湾攻撃の一報を聞き、「天皇あやふし」「私の耳は祖先の声でみたされ」、「個としての存在」から「共同体精神の卓越した表現人」として、戦争を鼓舞する詩を書いたという。

92歳の中村は、「共同体精神」に自己の魂がへし折られた高村が、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建したことに焦点をあてて、高村の戦後7年の独居生活を書いている。 

無責任2枚舌の岸信介や被害妄想のチャラチャラ安倍晋三とまったく違った「誠実さ」をここにみる。

『高村光太郎の戦後』(青土社)を、ぜひ、読んでみたくさせる石川の書評であった。

安倍晋三とその信者の研究――その2、年金問題

2019-07-20 10:06:09 | 安倍晋三批判

安倍晋三の『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)について、読書メーターの感想文を読むと、感想文の多くは、「自分の言葉で語ってわかりやすい」と本書をたたえている。

じつは、本書は「第6章 少子国家の未来」のかなりの部分を年金問題に費やしているが、読んでみても、何がなんだか、わからない。こうすれば、だれだれに不公平となり、ああすれば、だれだれに不公平になる、だから、慎重に年金制度の改定を進めている、役人が抵抗している、と言っているようだ。

善意で読めば「誠実な人柄」、悪意で読めば弁解に終始しているとなる。

安倍晋三は、改憲や安保や軍備増強や韓国との外交においては「闘う政治家」であるが、ここでは「闘う政治家」ではないのである。

「年金問題で弁解に終始」していることで、安倍晋三を非難するつもりはない。ここでは、「国民」というものは利害の相対立する集団の集まりである、ということを彼自身が認めていると指摘したい。すなわち、「国家のために、国民のためとあらば」という彼の国家主義的な考えが破綻している。

7年前に、民主党から政権を奪取するために、自民党が使ったキャッチコピー「決まらない政治から決まる政治へ」は危険な誤りなのである。焦らず、利害を調整して、決めていくのが、まっとうな政治である。

しかし、長らく、自民党は官僚と結託して、年金制度を利用してきた、という事実には、安倍晋三が目をつぶっているのは、納得できない。何に利用してきたか、と言うと、それは経済刺激政策であり、国民の特定の層をターゲットにしたものであり、選挙対策なのである。

40年前にやっていたことは、積み立てた年金基金を、保養所などの建物や道路を建設するように、自民党政権が指導していたのである。すなわち、建築業界や土木業界にお金が回るようにしていたのである。

この問題を不問にするから、安倍晋三は新たな誤りを犯している。

すなわち、この6年間、安倍政権は、積み立てた年金基金を株価の維持に使っている。

昨年の3月末の時点で、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が保有する国内株の時価総額は40兆円で、国内上場株式全体の5%に達する。

さらに、ことしの4月に、会計検査院が、公的年金を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」のリスクの高い運用方法に対して異例の警鐘を鳴らした。

日刊ゲンダイによれば、次の指摘があったという。

「GPIFは、アベノミクスの一環として2014年10月にポートフォリオの見直しを行い、国内株と外国株の比率をそれぞれ12%から25%に引き上げ、全体の50%にした。その結果、18年10~12月期に、四半期ベースで14兆8039億円もの赤字を記録。150兆円資産の約1割が吹っ飛んだ。」

「会計検査院は14年以降、株式運用の割合が増加してリスクが上昇していると指摘し、所轄する厚生労働省やGPIFに対し、「国民への丁寧な説明が必要」との所見を示した。検査院は「年金は老後の生活設計の柱。積立金は国民から徴収した保険料の一部だ。国民の利益のため安全、効率的に運用し、将来にわたって公的年金制度の安定に資することが強く求められる」と指摘。また一部の投資手法について、手数料などが詳細に開示されていないとして、収益などの透明性を確保するように求めた。」

私は個別の運用の失敗を非難するつもりがない。

それより、政府による株価の誘導は必要なのか、選挙対策を目当てに株価の高値を誘導しているのではないか、無理な株価高揚は際限のない政府の株の買い占めにいたるのではないか、という危惧を私はもつ。安倍晋三はGPIFや日銀は政府から独立しているというが、彼は人事に介入してきた。

もしかした、安倍晋三は国家主義的世界観に酔っているから、自由経済より国家による統制経済が好きなのかもしれない。

いよいよ、安倍晋三が「闘う政治家」のよりどころとする改憲や安保や軍備増強や韓国との外交や自虐史観や教育について、議論をすすめないといけない。

(つづく)

【追記】
きょう、参院投票前日の演説で、安倍晋三は、年金問題の解決は景気浮揚しかないと言っていた。そんなことは『新しい国へ――美しい国へ完全版』にも書いていない。ペテン師の彼は「景気浮揚」しか、もう、言うことがなくなったのだ。

私は30歳前後カナダで4年間働いていて、そのあいだ、年金(pension plan)の掛け金をカナダ政府に納めていた。年金番号も忘れていたが、友人のアドバイスで、1年前カナダ政府に問い合わせたら、毎月、年金が送られてくるようになった。日本よりもずっと福祉に厚い国が世界にはあるのだ。