きょうの朝日新聞の〈耕論〉は『国民的議論 できるもの?』をテーマとして三者三様の問題を提起するのだが、何を意図しての企画なのかわかりにくい。ここでは三人の言っていることを追っていきたい。
橋本大二郎は、「国民的議論」を政府が避けて、少数のものの自己決定だとして、本来は嫌がることを押しつけていると言う。核のゴミの捨て場になることは、本当にその土地の所有者だけの意思で決めていいのか、その所有者がいる村だけで決めていいのか、ということである。意思決定者の範囲を広げれば決まらないものを、政府が故意に狭めて、交付金を餌に決めていくということは、行政府の横暴ではないか、と言っている。
橋本は高知県知事の経験があり、また、兄が元自民党総裁で元首相であったことがあり、日本の民主主義が空洞化していることを見事に言い当ていると思う。行政府が明らかに権力を握っており、国会が国民の代表として機能していないのである。本来、少数者の自己決定だととして、まわりの多数の意思を無視していけないはずである。
国会が国民の代表として機能していないことに国民は怒るべきではないか。国会を自分たちの手に取り戻すべきではないだろうか。
伊藤浩志は、国民が科学の名に負けて自分の思いを主張しないことを指摘している。民主主義はすべての国民に発言権があるのだ。そして、科学とは価値観ではないから、本来、政策を選択するものではない。個々人の思いが目的を決め、その目的の実現のために、はじめて技術の議論がある。だから、科学がわからなくても自分の思いを政治にぶつけなければならない。
日本人は専門家に弱いのではないか。これでは、行政府が自分たちに都合の良い意見を言う専門家を集めれば、行政府は思いのままに国民を従わせることができる。民主主義とは、国民がみんな政治に参加することである。
ニールセン北村朋子は、「国民的議論」とは、国民が、日常の場で、みんなに関わる問題についての議論に参加するということだと指摘する。デンマークでは議論好きということもあって、多くの人が夜や終末に、地域の会合に参加しているという。うらやましい限りである。
北村の言っていることが、民主主義の基本ではないか。国会が国民を代表するためには、みんな自分の思いをためらわずに言い、他人と議論する場が日常的に必要である。議論することを恐れ、いつまでも、行政府の意のまま動き、憲法第9条を改正して軍隊をもてば、中国、北朝鮮から日本が守られるなんて思うのは、あまりにも情けないではないか。そんなに日本人は愚鈍なのか。日本では行政府がずっと権力をふるってきた。
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