猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

それでも戦争を選んだ「日本人」のディープストーリー、加藤陽子

2021-01-18 23:07:41 | 歴史を考える


加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)のタイトルが、なぜ戦争には「…」がついているのか、私にはわからない。日本人に「…」をつけるほうが自然な気がする。すなわち、『それでも「日本人」は戦争を選んだ』ほうが適切な気がする。

加藤陽子は、日本の支配者層に、とても優しい。憐れみの情を彼らにもって、日清戦争から日中戦争・日米戦争(大東亜戦争)までを振り返る。だから、『それでも戦争を選んだ「日本人」のディープストーリー』を彼女は書いている。私はすべての日本人が戦争を選んだわけでないと思うので、日本人に「…」をつけるのが適切だと思う。

第5章で、つぎの2つの問いに加藤陽子が答える。

(1)日本とアメリカには圧倒的力の差があることがわかっていたのに、どうして日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのか。
(2)日本軍は、戦争をどんなふうに終わらせようと考えていたのか。

(1)に対しては、2つの答えがある、と彼女は言う。第1は、日本が中国や韓国など弱い者いじめばかりやってきて心苦しかったが、強いアメリカに喧嘩を売ると決めて、気持ちがすっとしたという情動である。第2はアメリカの底力を甘く見たということである。

英文学者の伊藤整は、1941年12月8日の日本の真珠湾奇襲攻撃に、「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」と歓喜した。このことを、日本をこよなく愛した研究者ドナルド・キーンは、理解しがたいものとして、『日本人の戦争―作家の日記を読む』(文藝春秋)に書く。伊藤整の英文学理解はなんだったのかと問う。すなわち、キーンからみれば、伊藤は近代的自我を持ち合わせていない。国家と自己の区別がない。

加藤陽子は知的日本人の気持ちを次のように理解する。これまで、日本人が黄色人種でありながら、同じ黄色人種を殺戮してきたが、これからは白色人種と戦い、今までの罪のつぐないをするのだ、と。

バカ言うな。韓国人や中国人をこれまで殺戮してきたことが誤りで、まず、それを即刻やめるべきと、知的日本人は言うべきである。強いアメリカと戦ったからといって、罪のつぐないにはならない。

もちろん、加藤陽子は、戦後、東大総長になった南原繁が、日米開戦に驚き嘆いたことを紹介している。彼は、同じ日米開戦日の日記につぎの短歌を書きこんだ。

 〈人間の 常識を超え 学識を超えて おこれり日本 世界と戦ふ〉

無教会派の南原繁が、戦争中、新約聖書の『ヨハネの黙示録』を毎日読んで、天皇とそのとりまきへの怒りをおさめていたと、私はネットで読んだ記憶がある。『ヨハネの黙示録』はローマ帝国(大日本帝国)を神とイエス・キリストが裁く幻視の物語である。

だから、一部の「日本人」のディープストーリーに過ぎない。

第2は、日本とアメリカの国力差を当時の日本の支配層は理解していたが、日本の軍部には、長期にわたってアメリカとの戦争を準備してきたという自負があり、準備された戦力+奇襲攻撃+精神力(大和魂)で7割から8割でアメリカに緒戦で勝てると思ったという。ところが、持久戦になって、アメリカの兵器生産能力にすざましいものがあり、兵力の格差はどんどん広がった。

さて、(2)の戦争の終結のシナリオに対しては、加藤陽子はつぎのように答える。

〈相手国の国民に戦争継続を嫌だと思わせる、このような方法によって戦争終結に持ち込めると考えていた。冷静な判断というよりは希望的観測だった〉

具体的には、1941年10月に東条英機が部下につくらせた「対米英欄蒋戦争終末促進に関する腹案」は次のようなものだった。(蒋とは蒋介石の率いる中国のこと。)

〈このときすでに戦争していたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力をイギリス戦に集中させることで、まずはイギリスを屈服させることができる、イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄れるだろうから、戦争は終わる〉

何段階の仮定にもとづくシナリオだから、実現性は非常に薄い。したがって、緒戦でアメリカに勝てても持久戦になり、アメリカの兵器生産潜在能力の前にジリ貧にならざるをえない。

日本がヒトラー総統を説き伏せるほどのロジックを持ち合わせているとは思えない。ドイツの戦力をイギリス戦に集中しても、イギリスを屈服させることができるとは限らない。1941年には、ドイツ空軍はイギリス空軍に大敗しており、制空権を失っている。アメリカの国民は真珠湾奇襲攻撃に対する怒りを共有している。

戦前の日本の支配層は物事を論理的に考えられず、情動と希望的憶測に流される欠点をもっていた。その弱点は、「尊王攘夷」、すなわち、たよりにならない天皇を奉り、欧米と戦うのだという、大義によって増幅されたと私は思う。

幕末の内乱を生き延び、ドイツに留学もした元老の山県有朋は非常に冷静に力のバランスを考え、戦争にのめり込まないが、日清・日露戦争の神話で育った次世代(軍部と官僚)は、現実的な思考ができず、日本国内の下剋上(昭和維新)とヒトラーのカリスマ性に酔いしれていたのだと思う。

加藤陽子は「自虐史観」を語っているのではなく、劣等感にとりつかれた「日本人」のディープストーリーを優しく代弁しているのだ。

[補足]
ディープストーリー(deep story)とは、当事者だけが心の奥深くで真実と思いこんでいる物語、すなわち、妄想のことである。A.R.ホックシールドが、『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』 (岩波書店)で、ティーパーティーやトランプの支持者たちのディープストーリーを、加藤陽子のように、優しい目で描いている。

☆関連ブログ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿