加藤陽子は、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)で、歴史学者E. H. Carr(カー)が「歴史は科学だ」「歴史は進歩する」という主張したと書く。彼がどういう意図でどういったか私は知らないが、納得できない。加藤によれば1961年にカーがそう言ったそうである。
彼はイギリス人だから英語で言ったのだろうから、英語で理解しないといけないのだが、加藤は原文も出典を明らかにしていない。
しかし、「歴史は科学だ」「歴史は進歩する」という言葉はそれ自体として変である。
最初の主張の「歴史」という言葉を「歴史学」だとすると、「歴史学」は「科学」であるという主張が妥当であるかは、「科学」の定義の問題に帰結する。しかし、加藤陽子の言っているのは、「歴史」は「科学」の対象となりうるである。
だから、言葉として変なのである。「惑星の動きは科学である」とは決して言わずに、「惑星の動きは科学で扱える」というのがふつうである。「科学」は人間の抽象的行為を指すのが普通の用法である。
加藤はつぎのように書いている。
〈歴史は科学ではないと主張する代表的な論者は、良く2つの点を指摘する。1つは、歴史は主として特殊なものを扱い、科学は一般的なものを扱う、だから歴史は科学じゃないんだというもの。2つめの、歴史はなんの教訓も与えない。〉(pp71-72)
〈(カー先生は)こう反論する。歴史は教訓を与える。もしくは歴史上の登場人物の個性や、ある特殊な事件は、その次に起こる事件になにかしら影響を与えていると。〉(p74)
批判者の「特殊」か「一般」という問題の立て方が奇妙である。これは、「歴史」を考察することで有用な「法則」というものを導くことできるか、ということだと思う。批判者もカーも頭がおかしいのか、加藤が論理的な思考ができないのか、のいずれかだと思う。
もちろん、私は、人間の脳が論理的思考に不向きにできていると思っているので、このことで加藤を責めるつもりはない。
さて、「教訓」とか「人間の個性」とか「影響」とか言われると、私は言葉に詰まってしまう。たしかにそうだろうが、有用な「法則」とまでは言えない。人間の行動というもの、人間集団の行動というものをある程度まで説明できるかもしれないが、それを研究している人たちのなかの合意をどうやって形成できるのだろうか。
「科学」とは、研究している人たちの合意を形成できる手段を有している。また、だれかの主張が間違っていることを示す手段をもっている。
フリードリヒ・ニーチェは『善悪の彼岸』で次のように言っている。
Sie hat Augen und Finger für sich, sie hat den Augenschein und die Handgreiflichkeit für sich: das wirkt auf ein Zeitalter mit plebejischem Grundgeschmack bezaubernd, überredend, überzeugend, - es folgt ja instinktiv dem Wahrheits-Kanon des ewig volksthümlichen Sensualismus.
「物理学はそれなりに眼と指とをもち、それなりに明白さと平易さとをもっている。このことは的な根本趣味をもつ時代に対して魅惑的に、説得的に作用する。― それは全くのところ本能的に、永遠に大衆的な感覚論の真理基準に従っている。」(木場深定訳)
“Sie”は“Physik”を指しており、ニーチェは自然科学を「物理学」と呼んでおり、カントと同じ用法である。「目と指」は「観察と実験」のことである。
ニーチェは別に自然科学を賛美しているのではなく、下賤なものだとけなしているのだ。
ニーチェは哲学や心理学(人間論)を賛美している。
それでも、加藤やカーが「歴史が科学だ」といっても意味がない。歴史を対象とした「科学的方法」が合意されているわけではない。「歴史学」を「科学(science)」よりも「学術(Wissenschaft)」といった方が適切だろう。広い意味での人類の知的遺産である。どうしても、科学と言いたいのなら、研究者間の合意形成にどんな方法論を使っているかを述べるべきである。
「歴史は進歩する」という主張も「進歩」という概念に同意できない。ここでの「歴史」は「歴史としてみた人間社会」という意味である。
加藤は次のように書く。
〈カーは「経済や社会の平等といったようなものを実現する社会は、やっぱり進歩していると見なさなければいけない」と述べたわけです。〉
社会が進歩するというのは、ダーウィンの進化論の影響だと思う。現在の進化論は、「進歩」という概念を否定し、「多様化」という考えで解釈する。私は「進歩」するという考えには同意できない。社会は、昔より多様化し複雑化する。しかし、それが良いということで歴史をくくれない。カーのいう「経済や社会の平等」は少しも実現する方向に進まない。
もしかしたら、新型コロナ下での成人式で騒ぐ若者よりも、80年前の青年将校のほうが真剣に「経済や社会の平等」を考えていたかもしれない。
ところで、カーはソビエト連邦の歴史に詳しい人らしい。加藤によれば、カーが、歴史上の事件が、他の歴史上の事件に影響を与える例として、レーニンの後継者として誰を選ぶかという問題をあげたという。
レーニンは1917年のロシア革命を率いた人である。レーニンが亡くなるとき、革命の多数派は、ナポレオンがフランス革命をおかしな方向に引っ張っていったのは、ナポレオンがカリスマ的戦争の天才であったからだと考えたという。それで、レーニンの後継者を選ぶとき、軍事的なカリスマ性をもっていたトロツキーではなく、国内に向けた統治をきっちりやりそうなスターリンを後継者として選んでしまったという。
これは、判断の誤りを導いた「影響」にすぎない。どこに「科学」があるのか。
個人の天才性にたよるのではなく、集団の知恵をうまく生かす政治体制を追求すべきだったのではないか。もっとも、こう考えることは、スターリンの功罪を知ったうえでの「教訓」なのかもしれない。
「歴史は科学だ」は日本語としても変だし、「有用な法則」を導くことができていない。「歴史は学術」で、だいじなのは、人類の知的遺産として、何が起きたのかを証拠とともに記述し、人間たちがどう考えてそれを引き起こしたかを証拠とともに記述することである。
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