猫じじいのブログ

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加藤隆のいうように聖書全体を読んでメッセージを受けとるべきか

2020-10-15 23:28:46 | 聖書物語


きょうは、2016年の加藤隆の『集中講義旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(別冊NHK 100分de名著)を取り上げる。

その書の最後の段落に、加藤は

〈「聖書」は、その全体に権威があるとされます。聖書を読むのならば、聖書全体が何を主張しようとしているのかという立場を尊重しなければ、聖書に取り組む作業が、聖書全体の意義の前で無意味なものになってしまいます。〉

と書く。いっぽう、第4講には、

〈旧約聖書は複雑きわまりない書物で、全体をまとめるのは困難です。敢えてそこから代表的な短いテキストを1つだけ示せということになると〉

として、『申命記』6章4-5節を引用している。

〈聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。〉(ここで「主」は「ヤハウェ」の日本語訳である。)

あいかわらず、彼の「神学」で旧約聖書をムリヤリ読み込んでいると言える。

聖書協会共同訳で、旧約聖書は1478ページ、新約聖書は467ページである。全体を読まないと、加藤の神学に反論できないのであれば、いつまでも、私は反論できないことになる。

20世紀前後から、ドイツのプロテスタント系聖書学者が「モーセの五書」は史実でなく、物語であると指摘した。天地や人類の創造が神話であることは、誰でも気づくことだろう。だが、アブラハムやイサクやヤコブの物語、モーセの率いた出エジプト物語も創作である。

(ただ、私はドイツ語でこの主張を直接読んでいない。ドイツ語の “Geschichte”には「歴史」と「物語」の両方の意味があり、区別があいまいだ。だから、どのように当時の人を説き伏せたかは興味ある。)

「モーセの五書」は、5つの文書『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』からなる。

長谷川修一は、「モーセの五書」だけが物語であるのではなく、『ヨシュア記』『士師記』『サムエル記』『列王記』にも虚構があるとする。個々のエピソードにフィクションがあるのはあたりまえだが、長谷川修一の指摘するもっとも大きな虚構は、イスラエル統一国家の存在である。そんなものはなかったというのである。はじめて、これを読んだとき、驚いたが、いまは、納得できる。

旧約聖書では、サウル、ダビデ、ソロモンの3代の王によるイスラエル統一国家があり、ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダヤ王国に分かれたことになっている。長谷川修一によると、はじめからそうだった。アッシリアによってイスラエル王国が滅亡し、人々がユダヤ王国に逃げてきて、その融和のために、イスラエル統一国家の時代が昔あって繁栄したという、ウソの物語が必要になり、神話が出来上がったという。

北のイスラエル王国は気候に恵まれ、豊かな農業地帯で、10部族が住んでいる。南のユダヤ王国は荒れ地で、2部族しか住んでいない。しかし、旧約聖書では、統一王国の王は南の2部族出身で、首都も南のユダヤ王国にある。国力に大きな差があるのに、南が北を支配できたとは、そもそも不自然な話である。

ところで、加藤は『創世記』を知恵者ソロモンへの神学的批判であるという。彼は、カインの罪は「神のようになろうとした」ことだという。このカインはソロモンであるという。ここで、おもわず、エーリック・フロムの『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)の原題が “You shall be as gods”であることを思い出して笑ってしまった。

ユダヤ教徒の子に生まれたフロムは「人が神のようになること」が人類の進歩であると信じている。約250年前に、カントは、神の助けを借りずとも、自分で物事を判断できるようになることを「啓蒙」と言っている。いっぽう、加藤はそれを人間のおごりだという。

そういえば、8年ほど昔、プロテスタント系の発達障害児教育パンフレットに「知ることは罪だ」と書いていた。

聖書は昔の雑多な考えを閉じ込めたタイム・カプセルである。全体を読まなくてもよい。全部を読もうとしても、時間を無駄にするだけで、意味がない。しかし、誰かさんの神学を押しつけられるいわれは全くない。

加藤は、「モーセの五書」は、ペルシア帝国の高級官僚のユダヤ人、エズラによって編纂されたという。だから、ペルシア帝国によって権威づけられているという。

私は、「モーセの五書」は時間をかけてばらばらに編纂されたのではと思う。最初に編纂されたのは、もっとも退屈な『レビ記』でないかと思う。『レビ記』は物語ではなく、古代の掟と儀式規則の集まりである。

しかし、新約聖書がもっとも頻繁に引用する言葉「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」は、『レビ記』19章18節に出てくる。そして、ほかの旧約聖書のどこにもでてこない。

じっさい、『レビ記』の19章全体が、退屈な他の章に比較して秀逸である。たとえば、19章9-10節に

〈穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 
ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。〉

とある。また、19章14節には

〈耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。〉

とある。加藤が旧約聖書を代表すると言う『申命記』6章4-5節より、ずっとマシである。

しかし、それ以外の章は退屈である。古代の儀式に興味がなければ、飛ばして読んでいいと思う。聖書には多数のばらばらの物語があり、文学作品として読むので良いのだ、神学は不要である。


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